why I would like to speak English?

I'm clumsy with speaking English.

But, I'm a student in university that famous education in English.

Everyday, I depress. Everytime, I think why did I passed university.

(Maybe, Japanese education is horrible. It's another side of bureaucracy.)

 

Some people say, "I was study abroad", "experienced internship",

or "I worked in child rabor".

It's marvelous.

I have no possibility to work in for developing country.

 

Although, I have a interest to use English.

 

No matter how people insult me, laugh at me, No matter how I'm ridiculous.

 

I lose my confidence, I don't know why do I write this blog.

 

I have read books since I was a child. That is one reason why I would like to command of English.

 

sometimes, I miss my friend who lives on the world, and never met me.

Before  sleeping, I closed my eyes and come to mind that I across the cumpas in the US, widely the grass, with chatting, hold many books, in autum.

 

Solitude is one of an old friend of mine.

 

My friend said to me,

"You choose your state. If you wanna be make some friend, you may laughing with friends, but  you don't take an action".

 

Probably, she is right.

She is show me the real world,

and I live in imaginary.

 

Though, sometimes  I think,

"Isn't it so good my choice?"

 

 

「崖の上のポニョ」と「マザコン」

崖の上のポニョ」ってどんな話だっけー? と角田光代の「マザコン」を読み終えた後に考えて、

大学でDVDを見ていました。

 

3限のプレゼンがつらかったというのもあるのですが。

 

とはいえ、ポニョと星野源の「化物」と「おもえもん」を見たら少し元気が出て、まずはブログを更新することにしました。

 

最近のテーマは

「母」というもののかかわり方です。

 

母親がどんな風に娘・息子とかかわっていくのか、ということをぽやっと考えました。

 

崖の上のポニョ

 

では、海なる母と人間をやめて魔法使いになった所ジョージから生まれた人魚姫です。

起承転結のない、わあーーーっとしたアニメーションが特徴的で、絶えず動き回るポニョや魚たちがいます。

 

最初見たときは「なんだこれ」という感想でしたが、「母親」に注目してみるとそれなりに面白くて、

たとえばそうすけのお母さん・リサは帰ってこない夫に信号でバカバカと伝えます。

ここでお母さんは夫を待ち焦がれる一人の女性で、子供の前でも常に母親であるわけではありません。

 

角田光代さんの短編集「マザコン」だとこのことは反対で、母親が一人の女性ということに戸惑う姿が幾人も描かれます。

 

対してポニョのお母さんグランマンマーレは娘をちょっと遠いところから同一視しているところがあるように感じます。ポニョのお母さんとお父さんでは、お父さんのほうが「人間」に近かったわけですが、「人間でないもの」に恋をしたという点ではそうすけくんと同じです。

 

最後にそうすけくんと握手をするところはほっこりしました。

 

ポニョがお母さんに対して、「怖いけど大好き」というのは興味深かったです。

 

「母」-「娘」

 

息子にとって父親がどちらかというと乗り越えるべき対象なのに対して、娘にとっての母親はある場合のみこまれてしまう恐怖を持っています。

母は娘に対して主導権を持っていて、このバランスを保っているのが娘にとっての父のような気がします。

 

とはいえ、やはり人間関係や心理を考えるときに、そこには「友達」が必要なのであって、ここは単純に男・女で区切られるものではないのが面白いですよね。

 

女の子同士の友達というのは特に難しいような気がしてなんとも言えません。

ジェーン・オースティンとかヴァージニア・ウルフとか

ああいうのをもう少し読んだほうがいいかもしれません。

you and me

就職活動の文字が鮮明に見えてきて、

自分が何を持っているのか、どこに立っているのか不安になることがある。

 

音楽を聴きながら、さっき聞いたお話の感想。

 

・大学生の間でinputできるのはいまのうち。

  旅行、本を読むこと、友達と話すこと、映画を見ること。

 

学生時代のあらゆる経験すべてが仕事に活かせる。

 

・ものすごくいろんなことにアンテナを張る、

 どんなことでも一つ一つメモする。そのことが全部糧になる。

 

学生時代から就職や仕事、自己実現に目標が定まっているのはよいことだし、

それで選んだ就職先、仕事がたとえ自分が最初から臨んだものではなくても、

その中で前向きで仕事に取り組んで変われることがあるんだなーとほっとしました。

 

そして気づいたことは、先入観なくいろんなことに広げてみることで、

視野を広げることができるというのは本当のことなんだなー

ということです。

 

残りの学生時代でやりたいこと、やっておきたいこと

(たとえばバスケの試合観戦とか)

をやってみたいなぁと思いました。

何者

書きためていたことの消化のために、更新が多くなっています。

 

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ついに、DVD鑑賞しました〜!

 

この話はアイデンティティの話なのかなー? と思いながら観ました。 

 

TwitterやLINE、Facebook といったSNSツールを小説や映画に登場させたことが、2010年代を象徴しています。

 

主人公は「分析がすごいね!」と讃えられつつ、Twitterで周りの人たちを「辟易した」とか「バカじゃないかと思った」と言ったりする就浪生です。(言葉は正確ではありません)。

 

SNSってものすごく人をカテゴライズするなー    とは思っていて、

たとえばどんな人がどんなことを呟いていた、どんな写真をアップロードしていた、どんなことにいいねをしていた、

とかで分類されがちですよね。

「サブカル女子」「メンヘラ」「イキリオタク」「こじらせ」などなど。

 

他者を見ることは自分を見ることにもなるけれど、どこかで自分の弱さをきちんと受け容れられたりしないと、ある種の臆病さやある種の勇気がなければ、何者にもなれないのかなーと思いました。

 

私は誰か?   という問いには他人との交流が欠かせず、なおかつ自分とのバランスをとらなければいけないので、答えるのはとても大変です。

 

結局、今目の前にあることを一生懸命やるしかない、という結論に落ち着くのですが。

 

カフカの言葉から、この映画に適するものを自分への戒めとして添えておきます。

 

「幸福になるための完璧な方法がひとつだけある。

それは、

自己のなかにある確固たるものを信じ、

しかもそれを磨くための努力をしないことである。」

 

 

 

「知識人の表象」-E.サイード

2年生の時のゼミの先生が、当時の3年ゼミでのテキストとしてサイードの「知識人とは何か」を用意していたこと、

先のブログで「知識人」という言葉を使ったことで、

「そういえば知識人ってなんだっけ?」と思い、本棚にあった平凡社の文庫本を引っ張りだしました。

 

第一章の「知識人の表象」から、考えたことなどをまとめておこうかと思います。

 

えーと、まず問題意識として「知識人に憧れる」とはどのようなことか、という疑問がありました。

 

私は研究者とか、ウェズリアン大学の奨学生に憧れるだけの凡庸な大学生なのですが、Twitterを眺めたり、寮生活を送っているとどうも「ひねりのきいたことが言える」というのがクールなこと、という風潮がある気がします。反対にそういうことの反動として農業とかコミュニティ、シェアという文化に憧れる人が多かったり。

 

第1章では、グラムシ、バンダ、グールドナー、C.ライト.ミルズなどを引用し、展開しながら「知識人」の定義を明らかにしていました。

 

私が前の記事で使っていた「知識人」はどちらかというとグラムシの言うものに近く、サイードの要約を引用すると

「今日、知識の生産あるいは分配のいずれかに関わる分野で仕事をしている者」ですね。また、最近感じていた世間の風潮はグールドナーの「知識人はいまや、かつて資本家や地主階級がつとめていた役割をかなりの部分で肩代わりするようになった」という言葉に集約されます。

 

イードの明らかにする「知識人」は、公的に自分の考えたことを肉付けして明晰に言語化できる能力を持った個人、ということであり、そうしたことに存在意義を見出せる人間

ってことのようです。

 

イードはこのような個人は〈普遍性の原則〉を前提にしていると言います。

 

すなわち、

①あらゆる人間は、自由や公正に関して世俗権力や国家から適正なふるまいを要求できる権利をもつ

 

②こうしたふるまいの規律が無視されるならば、そのような侵略行為には断固抗議し、勇気を持って闘わなければならない

 

また最後に、「知識人」を「批判的センスに全てを賭ける人間」でありながら、「自分自身を見失わずにバランスをとりながらどこまで奮闘をできるか」探求していくこと、とあります。

 

このことは絶えず批判されまくりの私にものすごく大きな勇気を与えてくれましたが、

イードの言う「知識人」はいつでも・どこでも「発信」のできる現代社会においてはこれだけでは説明不足なのではないかと感じました。

 

その背景となる「知識」やエビデンス、共感や受容といったことも同時に培われなければ、メディアの発達した現代では損なわれていることも多くある気がします。

 

 

サーミの血

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渋谷アップリンクにて友達と鑑賞しました。スウェーデンの統治下で劣等民族とされたサーミ人の少女の、アイデンティティをめぐる映画です。

 

北欧の美しい緑や湖の景色に癒されました。しかし内容は結構重厚。

というのも、「自分たちの言葉を使ってはいけない」「こういう宗教を受け入れろ」「民族衣装を着て」「珍しいわね」

「裸になりなさい」といった主人公が「サーミ人だから」見世物になったり、自分たちとは違う対象である描写が数多くあります。

 

でもこれは、ただの「ひどい話」ではなくて、ある女性の「生き方」の話です。

 

自分の名前までも捨てて、スウェーデン・都市部の学校に進学することは彼女にとってどれほどの選択だったのでしょうか。

 

これと同じようなことは、たぶん日本でも普通にあって、本当の名前を隠したり捨てたりしている人が多くいます。あるいは、日本の名前が海外では通じないために海外名を持っている人も見かけるけど。

 

私はだれか?

といったアイデンティティに関わる問題はそれが揺らげば揺らぐほど大きな問いを持つと聞きます。つまり、多民族社会や帰国子女、その人たちに接する人は自分とは違う言語・文化を持つ他者によって自分の存在を脅かされるというのです。

 

このことに優劣をつけてきたのは、「文明人」であり「知識人」です。

 

映画ではスウェーデン人教師が主人公に「あなたたちの脳は文明に適応していないと研究結果が証明している」と言いますが、「私たちはあなた方よりも広い見方ができる/知識を持っている」と考えることで、自分たちとは異質な存在を「異質である」と対象化することができます。

 

主人公エレ・マリャは「広い見方ができる」、異質なものを異質であると対象化できる「文明人」に憧れたのであり、それが実現できない世界を狭い世界であると断定します。

 

より良い世界を求めたいと思う、権利の自由がある世界があるべき世界だと思う、このことは持って然るべきだし、その信念に突き動かされて歴史は動いてきました。

 

しかし一方で、「不平等で、抑圧されていたもの」がなかったことになるわけではない、と私は考えます。

 

それらはずっとそこにあり続ける人々の想いであり、生活なのです。

 

映画の最後のシーンで、自分の故郷に戻り、妹に「私を許して」と語りかけるエレ・マリャが何を思って目を瞑り、風を受けていたのかはまだわかりません。

 

それらは少女時代の後悔なのか、それとも彼女が年齢を重ねてわかったものなのか...。

 

その映画の最後のシーンがあまりにも印象的でした。

 

機内で観られる映画ではあるけれど、お金を払ってスクリーンで観る価値のある映画だと思います。

 

 

 

ボストン美術館の至宝展

に行ってきました✨

 

 

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エジプト-中国美術-日本絵画-フランス印象派-アメリカ、現代美術

 

という展覧会。

 

こじんまりとしていた点がgood.

 

喜多川歌麿の絵が好きで、ポストカードも買ってしまいました。

モネ(マネ?)の赤い花の絵も素敵だったし、梨を赤と緑だけで描いた静物画も素敵でした。

エジプトで発掘されたブタちゃん(っぽい)容器もつるんとしてかわいかったな。

ゴッホも来ていましたが、なんとなく「装苑」って感じでした。

羅漢図も割と好きです。

徽宗の字は美しかったです。

そういえば世界史の資料集でみたことあったかな?

 

地中海を描いた絵もあって、今年行ったクロアチアのことをちょっと思い出しました。

 

ルノワールの花の絵も素敵だったな。

でもそのおかげで地味になってしまった、ラトゥールの静物画も地味に好きです。

 

桃や梨の、あの果物独特の丸みやでっぱりがすごく素敵だった。「印象派の時代に古臭いと言われたが、自分の絵というものをつきつめた」

と解説にはありましたが、私は地味ながらもあの絵が好きです。

 

これからラトゥールは要チェック✨

ですね。

 

「みはし」であんみつを食べ、ちょっと散歩して帰りました。

 

寮での不満がたまっているらしい(笑)

 

現代美術の「静物画っぽい構図の桃が腐っていく動画」を熱心にみていました。

 

....彼女にはこの半年間何があったのだろう。

 

堰を切ったように話す彼女がなんだか懐かしく、それでいて知らない人のようで、

それでもこれからも関わり続けられればいいなー

なんて思いました。

 

お礼メールの返信がこなくてさびしいʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ•̫͡•ʕ•̫͡•ʔ•̫͡•ʔ