大学1年:寮でクリスマス、とにかくクリスマス。お正月にお参りへ。気がつくと試験前。
大学2年生:レポート提出。成人式。お正月のお参り。1月1日に新宿を通る。
大学3年生:卒論発表会。クリスマスに映画を観る。レポートに手をつける。DVD鑑賞。どうぶつの森。
大学4年生:卒論を提出したらアルバイトをする。打ち上げ会に参加。(予定)
前撮り。
ちくま新書「『考える』ための小論文」を読みました。
(以下、レビューです)
論理的に書く、ということに興味があり、卒業論文も意識しなくてはいけないので読みました。
実践編では「文化相対主義」についてのレヴィ=ストロースの講演を書き起こしたものが載っていたりするので、結構楽しめると思います。
(法学的な要素がある「自由と制約」は難しかった)。
大学に行くことのメリットとして、「書いたものを人に読んでもらえること」があると思います。レポートとか、コメントシートとか、その時その時は面倒だけど考えを整理することは結構大切です。(でもレポートはおざなりにしがち)。
実際に私も新書の課題に沿って書くにあたって、「自分の書いたものには主張がないなあ」とか、「あまり論文の矛盾を気にしていないなあ」という発見がありました。
書くだけでなく、クリティカル・リーディングも必要そうです。
人の話について、「構成」を意識していないから、自分でも何かを話すときに構成が意識されていないなあ~とか。。
この本を読んで感じる自分の弱点は人によって様ざまだと思いますが、
「論理だてて主張する」ことや、いろんなこと(自然、社会、自分など…)について考えたい人にはぴったりの本だと思いました。
とはいえ、書いたものを読んでくれる人がいないと、どういうところが良いのか、ダメなところは何かがわからないので、小論文を書くときはプロに見てもらったほうがいいと思います。
作家のジョニー、弱虫のウーリ、秀才ゼバスティアン、リーダーのマルティン、けんかに強いマルティン。
印象に残ったのはこのゼバスティアンのこのセリフ。ウーリが骨折をした後、ウーリの行動は絶望の勇気ではなく、恥を知っていることを指摘したうえで言う。
「これまでにさ、ぼくに勇気があるかどうか、考えたことってある? ぼくが臆病者だって、気づいたことある? ぜんぜんないよね。だからこそここだけの話だが、ぼくって、ものすごい臆病者なのさ。でもね利口だから、誰にも気づかれないようにしているんだ。ぼくはさ、勇気がないからって、特別に悩んだりしない。恥ずかしいとも思わない。それもまた、ぼくが利口だからなんだ。どんな人間にも欠点や弱点がある、ってわかってるからさ。その欠点を気づかせないようにする、ってことだけが問題なんだよ 」
また、ジョニーはウーリの両親が「あんなことをするなんて」といったときに
「避けるわけにはいかない、つらい経験ってものがあるんです」「ウーリが足を折っていなかったら、きっと、もっとひどい病気になってたと思います」
という。
「ウーリが(実は)勇気を見せるために窓から傘をつかって飛び降りた」ことが骨折につながった時にこのように考える二人の言葉にはっとする。
気づかせないようにすること、思い切って行動すること、どちらが大事なのだろう。
ウーリの行動には「大人になるための儀式」のような意味がものすごく込められていて、一方では非合理的に映るかもしれない。儀式なんかしなくても大人にはなれる、利口さで。。というような。
私は友達に、「あなたは弱さをオープンにする。私は閉じている」と言われたことがある。オープンにするというか、成り行きでそうなってしまうのだけど、きっと彼女は賢いのだろう。実際周りに人によく思われる人で、みんなが「あの人って結構周りによく思われたいんだな」と思うのは時間の問題だったと思う。「中には孤独があるんだな」と。
孤独を適度に見せながら、自分を見せないようにする方法もあるかもしれない。
とてもうまいやり方だと思うし、なんとなく多くの人はこういうことができているのだと思う。(村上春樹はそうだと思う。「孤独なんすよー」と内心で言いまくりながら、会話ではちょっとしか弱みを見せない。あと女にしか弱みを見せない)。
ウーリみたいな欠点がでてしまう人は、克服していくしかないのだろうと思う。勇気と賢さで。飛び降りずにこのことを実践していくのはとても難しい。
具体的な方法はまだ思いつかない。
きっと「ブログを書く」とか「鏡に向かって笑顔になる」とか、そういう小さなことの積み重ねなのかもしれない。
作者は前書きで勇敢さと賢さの両方を持つことが大切である、と説く。
宿舎の子どもたちが成長していくように、私たちも、子どもの心を忘れずに、大人になっていけたらいい。
☆そういえば私の弱点は「話が飛ぶ」「話の論点や意図がずれる」ことらしいのですが、ブログを書いていて とりあえず書く→方向性に合うようにタイトルをつける→いらないところはカットする をしていました。
論点がずれないためには、タイトルをつける→方向性を決める→書く
という作業が必要なのかもしれませんっ
次回はちくま新書「『考える』ための小論文」 です。
よろしくお願いします(*‘∀‘)
休日に「麒麟の翼」と「オレンジデイズ」をうっかり見てしまい、それでもレポートをカタカタと打ち込んだはちみつです。
交換日記、とかミクシィとかブログが流行り始めた時代、それがお金になるとか、ユーザーは考えていたのかなあ。
とぼんやり考えてみます。
たまに、農家のおじいちゃがやっている花についてのブログをみるとほっとします。そういうツールだったなあって。海に流すボトルみたいに、誰かに届くといいなと思いながら発信するツールだったな、と。
私の部屋は現在南向きです。
去年は雨の日が多くて、その効果は限定的なものだったけれど、
朝日が差し込み、日中も明るいというのは素敵なことだと思います。
日が差し込む部屋を(ちょうど一年くらい前に)下見して、ここに住むことを決めたのでした。
それからもう一年経つことに驚き、一年前にアルバイトを始めたことに懐かしくなりました。
雪がまだ残る今の一年前、私はこの一年で大きく変わるのだと思っていました。
変化はあったけれどそれで何かが大きく変わったわけではありません。
半年間、就活をしてアルバイトでお金を貯めて、卒業して卒業旅行に行く。
あと長岡花火大会に今年こそ行く。
卒業するとき、なんとか穏やかに春の香りに身を委ねている私でいたいと思いました。
川上弘美さんは、「センセイの鞄」「ニシノユキヒコの冒険」「溺レル」に続いて4作目です。
都内から私鉄でも地下鉄でも20分くらいの町、ということで今住んでいる町に似ているのかなあと思いながら読みました。
魚屋さん、塾講師の先生、居酒屋の板前さんとお運びさん。競馬新聞を片手にするおじさんとか、「うちの町にもこういう人いる!!」って妙な親近感がありました。
吉祥寺にも渋谷にも新宿にもない、
新しいビルと古い駄菓子屋が混じる不思議な東京の街で、私は何を求めているんだろう...? とたまに疑問に思います。
そこそこ気に入っている部屋と町の風景を眺め、この町には実はじんわりと多くの秘密や時代を抱えているのではないか、と思いつきました。
ある人にとっては新天地であり、またある人にとっては日曜の午後を過ごした日々があり、ある人にとっては昔からじっと生活している場所なのではないか。
小説ではそれが離婚や葬式、引っ越しと相変わらずつかみとれない寂しさを込めて描かれています。だけど同時に温かさを感じるのも川上弘美さんの作品ならではだと思うのです。
最近はダニロキシュ、マルグリット・ユルスナールといった人々に挑戦しながらテストや就活について考えていたので、川上弘美さんを読んでちょっと安心をしました。