大学4年生となった4月1日、
小学生から高校生までの女の子を主人公とした短編集を読んで、自分の中高時代を振り返ってみることにする。
私は卒業式をいつも待ちわびていた。
小学生の時は最後のクラスの担任の先生が嫌で嫌で仕方がなく、
そうこうしているうちに一人浮いてしまって、「変わっている」と言われ始めていた。
この時点でハードモードだ。
将来の夢という色紙に「東京外大か音大に行きたいです」と書いていた。
高校の大学見学で外大に行ったし、大学生になって国立音大にも行ったからはからずとも夢はかなったことになる。
そして中学受験に失敗し、高校受験がまたあるのかと途方に暮れて中学に入学した。
県内で下から数えて二番目に頭の悪い中学だったらしい。
良い言い方をするとそこには多様性があったともいえる。
吹奏楽部に入部して週七日は部活に行き、火曜日はピアノのレッスンを受けた。
帰ったら宿題をするでもなくすぐ寝てしまい、テストでは点数をとるという嫌な生徒だった。数学と理科が好きで、先生に「お前は理系だ」と言われたかと思えば「お前は文系だ」と言われたりもして、進路希望には「音大、薬剤師、国連職員」と書いた気がする。このうち薬剤師と国連を経験した人が今の大学のゼミ教授となる。
夏の、風も吹かないうだるような暑さの中で楽器を吹いて、演奏中に一人がつかまると「寝たいなあ」とか「本を読んでいたいなあ」と思っていた。
中学三年生になって眠れなくなり、パジャマが汗で全身濡れている、とか憂鬱で川に身投げしそうになるとか、そういうことが起こり、高校は推薦(のようなもの)で私立に行くことにした。奨学金がとれるあてがあったのだが、調子の悪い私は回復せず、一番下のクラスに入れられた。
そしてイベントの保健室組となり、ゆらゆら帝国というロックバンドにはまり、マガジンハウスの雑誌を読んで「東京」への欲を膨らませた。
大学生になって、意外とそういう人はいるものだと納得したが、私はやっぱり、私には「青春が欠けている」という意識がずっとあった。
ちはやふるみたいに部活を頑張ったりは高校でしていないし、窓から野球部のカッコいい男の子を眺めたわけでもない。速くこの四角の無機質でところどころひびの入った暗い建物から出ていきたいとそればかりをただ思っていた。
逆に言えばこのまわりのなんにもなさが私を「東京の大学に行く」というエネルギーにしていたのかもしれないけれど。
大学生になり、高校での「保健室病」が続いていた私は体育を4年でとる。1年を通じてとる。
東京のはじっこで暮らし、時には島に出かけたりトルコを訪れたりして思ったことは、「〇〇に行けば」何かがあるのではなく、「〇〇に行っても何かを求め続けなければならない」ということだ。鬱屈した中高時代を振り返って、「自由は案外難しいのですよ」としたり顔でその時の私に言いたい。
でも自分探しとか、やりたいこと探しをするのも勿体ない。
私は中学・高校でできなかったことを存分に大学生活でやってみて、
そして就職をする。
中学時代、高校時代に目指していたものをたどって、どこかちゃんとした生活のできる未来にたどり着いていますように。