過去の否定と回復の仕方

「そもそもその寮に入ったのが間違いである」と言われて2時間くらい寝込みました。はちみつです。

 

寝込んだ後に、勢いあまって自助グループの会の参加をすることにしました。

 

今回のテーマは過去の否定とそこからの回復の仕方です✨

 

昔、「ここにいる私はおかしい! 違うところに行くべきだ!」と思っていた私は、その中でうざがられてもやりがいを見つけていたし、もっと価値観がはっきりしていた気がします。回復の仕方は「学校をさぼって人のいない動物園に行く」とか「映画を観る」とか、「県立図書館に出かけたあとに結婚式会場のマリア像の前にたたずむ」を重ねているうちに自分の中で「これができたらこれがこうなるなあ」というのがはっきりしました。

 

お正月にも動物園でパンダをみているし、映画もよくみているし、(ちなみに今月のおすすめは「告白小説、その結末」らしいです)、これからモスクにもでかけます。

 

あの頃の私は(主に村上春樹)をつかって自分の身の回りに起きていることを言語化し、(っていってもふむふむとうなづくだけだけど)、自己啓発本を読んだり、とにかく今の状態から脱することに夢中でした。

 

それでもその「状態から脱しようとする状態」になるまでに半年間狂わなくてはならなかったし、その時のちょうどん底に比べると今の状況は天国なので、その恩恵はきちんと受けなければと思います✨

 

そういえば「誰かに似ている」とか「このままだとこの人のようになる」と言われるのは好きではありません。あなたはそんなことを予言して自分が逃げるための口実づくりしかしていないじゃない! と思うのです。

 

とにかく自助グループに行って日ごろの疑問や私のこれからについて考えていこう。

 

今日はこれから他に、ロシア文学のレポートを書きあげるために、勉強をします!

課題はプーシキンの「スペードのクイーン」。

さわりだけ読むと、芥川の「魔術」にも似ていますね。

芥川はゴーゴリといい、ロシア文学が好きだったのかなー?

 

◇まとめ:過去から回復するためには

「失ったものではなく、今あるものを考える」

 

・回復するために夢をもつ

・今できることを一歩ずつ

・単語帳を眺める

・一人になれる場所を積極的につくる

 

 

 

悩む

最近、(薬を飲むのをやめていたために)症状が悪化してテストで死んだ、はちみつです✨ いぇいぇいぇい

 

今日は講義で「日記をつけることはいいよ!」「とりあえずやってみることが大事だよ!」というお話を頂いたので、ブログを読み返してみることにしました。

 

・・・ボニファティウス8世並みの憤死でした。

 

え? なんでこんなに偉そうなの? って感じのことを堂々と言いまくっていました。

こんなに偉そうなことをぽこぽこ言うくらいならボランティアとかすればいいのに・・・ってくらいの傲慢さでした。

 

大学生が就職の前にインドの子どものためにボランティア旅行に出かける理由が少しわかった気がします。

 

最近影響を受けた言葉

 

・自分がわかっていますアピールをするのをやめろ

・あなたは生まれつきの表現者なので表現ができないと死ぬ

・どっちかっつーと出版・文筆系

・あなたみたいな人はそういう種類の病気になりやすいのである

 

私が死ぬなぁ☆と思うのは、やっぱり「ピアノをやっていた時はめちゃくちゃ幸せだった」と思うことがあるからです。(前にも書いたことがある気がする)

 

最初はクリアしていくことが好きで、だんだん自分の現在の実力と合わない曲を「好きで」「いつか弾きたい」と思っていて、CDを聴きまくったり、1時間かけて図書館で本を読んだりCDを借りたりしているうちに

基礎練習をするようになって、何時間も練習できるようになり、

基礎練習もその先の応用っぽい基礎練習も楽しくなり…という風に回っていたサイクルが唐突になくなってしまいました。

 

「あなたは一つのことをやり遂げた経験がないでしょ」と言った人は私のこの執着気質を聞いてから言ってほしい・・・。

 

それか高校生から短歌界に入って歌人になりつつ国文学を研究するとか、

大学3年生で芥川賞の候補になって出版をするとか、

そういう道もつくれたのではなかろうか…。

 

うぅ・・・でも、でもさ

1年生の頃からさ、

 

・社会人入学

・二浪

・一浪して編入試験

・大学5年生でベンチャー

・起業した

・中退した

・大学8年間在籍した

・留学した

・聴講生をした後大学院に行った

フリーランスで働いている

・農家になった

・「はい」しか言えないけどメキシコで通訳の会社にインターンに行く

・大学編入した

・大学編入した

フィンランドに行った後アフリカに行った

・転科して入院して留学に行った

・専門学校に行った後哲学を勉強しにいった

・プログラミングを初めて休学をして編入しようと計画中

 

みたいな人たちに囲まれていたら、「ストレートで就職してお金を稼ぐ以外の道も全然あるんだなぁ・・・☆」みたいな気持ちになるのは当然の結果と言えば当然の結果ではないですか!?

 

私がしたことと言えば、

・(実は)苦手なくせに入った寮生活

・インタビュー記事を書く

・単館ミニシアターでバイト(マルチタスクが苦手すぎてクビに)

・地方創生

・みかんジュースを売る

・旅行

・博物館でアルバイト(資料をなくして自信もなくした)

・映画を観る

・夜な夜な人としゃべる

・踊る

 

くらいのものなのです。

 

っていうか大学二年生の一年間+大学3年の後半

なんて調子を崩した挙句骨折して臥せっていたし。

 

も、いっそのこと二年くらいお嫁さん及びできそうなアルバイトをしつつ、大学院に行ってもいい気がしますよね☆

 

そしていろんなことにうちのめされても私はこれでいくのだ! と言い張ってもいい気がしますよね☆

ゆっくり二年間養生してからでも遅くないっていうか本来なら休学・留年をしてもいいかなって思います!

 

・・・桃農家をしながら翻訳で食っていきたい・・・間に芥川賞とかとってちやほやされたい・・・。

 

とりあえず「死にたい」が口癖になっているのをやめたい・・・。

 

 

 

 

 

 

 

雑記:「双極性障害」は着脱できる?

最近はじめた出版社のアルバイトを主治医とカウンセラーのストップがかかって辞めました、憂鬱が続きます。

 

ある講義で「メンタルヘルス」や「当事者」がキャラクターであり、着脱でき、可能性を閉じてしまっているようなものなのではないか、というお話を聞いたので思ったことをメモします。

 

私自身、「うつだから~」とか「こういう人間だから~」というのを聞くと、「なぜそんな閉じこもるのか、ハリネズミなのだろうか」と思うことがよくあります。

 

でも最近の自分が、(主に「フリーランスの翻訳になりたい」「桃農家になりたい」「大学院に行きたい」など)夢を語るときに、現実とのバランスをとるのがとても難しくて、そして双極性障害と診断されていたりすると、私がこうしたい!! と思ったことは全部「誇大妄想の症状」で片づけられてしまう、というのがよくあるパターンです。

 

(最近、「およめさんになりたくて婚姻届けをゲットしました!」と主治医に報告したら真顔で「サインしていないよね?」と注意されました。正常な判断ができていない、というのが理由らしい。)

 

一生薬を飲み続けなくてはならない、とか家族が人を轢いても平気であるということに対して普通に生活していける気があまりしません。

薬物依存の自助グループの人が「普通の人にはわからない」って言っちゃう気持ちもすごくよくわかる。

いつ再発するかわからない、薬を飲み続けなければいけない、原因はよくわかっていないけど脳とゲノムとストレス誘発要因が原因である、って言われたって納得しないもの。

 

納得できないのに、依然として自分の経験と症状はそこにあり続け、それでも自分が保てないのは(死にたくなるのは・気分の波が変わるのは)脳の病気のせいなんです、と言われてしまうとなんだか妙に安心したりもする。

 

私がこんなに苦しいのは、普通の人ができることができないって思うのは、

朝起きられないのが「異常なこと」になってしまうのは、そうか全部脳の病気のせいなのである。

 

友達はそんな状態を「都合がいい」と言い切ってくれるし、「病気は個性である」と言ってもくれるけれど、そういうのは罵詈雑言を浴びせられてそれでも笑顔だったのに好きなものもできたことも失ってしまって希望をすべて失ってから言ってほしい。

 

同情を求めていない、理解してほしいとも思っていない、

ただ「自分がこうしたい」と思ったことや「なんだかできないなぁ」ということが全部病気によるものなんだと説明できてしまうことがとても混乱させる。

 

そういう意味で双極性障害というのは着脱できるし、

言葉がわからなくなっても、説明がうまくできなくなっても

それは全部病気のせいなんだと言われれば、「こんなの本当の私じゃない」って思うことができるし、再構築するときなんだと思うことができる。

 

たとえ排他的と言われてもそうなりたくてなっているわけではない、ということ、ひねくれてしまう残念な部分と、よりよく生きようという気持ちが和解できますように。

 

こうぷろに関して思うこと。

高度プロフェッショナル制度が採決されたとのことで、

アカデミック界隈の方がツイッターに溢れておりました。

 

私はばかなんで、人の言ったことを組み合わせたり、それと自分で思ったことをプラスして書き残すだけなのですが、

 

年収1000万円以上の人が24時間労働しても大丈夫とか、

あとで細かいことは決まるのでしょうけれど、

それって専門の仕事一本でやっていくとか無理じゃん? もはや独立した方がよくない? と思うのでした。

 

でもたぶん、専門性の高い人にそういう条件がかかるということは、その先にどうなるとか、どうなってほしいとかいうビジョン? があるのかなぁと思います。

 

えっと、たぶん日本の労働市場ってたいへんで、

・日本の企業がグローバル化とかいって外に出て行っちゃう。

ノマドワークとかいってフリーランスの人も出ていっちゃう

・えーあいが今ある仕事をなくしてく

・結果として産業があまり育たない

 

みたいな状況が予想されていたのかなあと思います。

 

でも教育という観点では、プログラミングをしたり、英語を頑張ろうってことになっていて、

 

ますます加速していくのをやめるために

日本で起業してもらおう!

筑波大学の准教授的にいっぱい副業してもらおう!

 

という動きになったのかなあと思います。

 

分業じゃなくて兼業があたりまえになるんだったら、専門家っていらないのでは? と思うのです。

 

そういえば、むかーし官僚の人に会って思ったんですけど

やっぱり政治と大学って関係していて、

テレビで写っている報道なんかよりも断然頭が良くて要領も良い人が国を動かしているのだ、ということです。

留学してシンクタンクで働いちゃう人とかザラにいます。

シンクタンクの人たちは新しいシステムを考えるのが得意なので、そういう人たちが歯車みたいに関係して、政治が動いているんだなぁということでした。

 

まあ職がどーであれ政治がどーであれ、

私が大切にしていきたいことは一つで、

それは「この人いいなあ」と思っている人についていくことです。

 

好きな人についていくために自分のことも好きになれそうだし、好きな人に囲まれていたら幸せになりそうな気がしませんか?

 

 

 

普通

「普通であること」についてお話を伺いたい、というお題が来たので備忘録のために書いておきたいと思います。

 

私が考える普通とは、

お金が数えられることであり、ものをなくさないことであり、「変わっている」といわれないことであり、そんなことに一々傷つかないことであり、計画的になり、人の言うことをきちんと聞けることであり、コミュニケーションが問題なくとれることを言います。あと、電車の乗り換えを間違えない能力です。

 

でも私が「好きだな。いいな」って思った人たちは「変わっている」と人に言われた人たちだったし、

つまり私は「変わっている」と「普通」な人に言われる人が好きなわけで、

でもその人たちが全然「変わっている」とは思えないし、

つまり「普通」な人たちのほうが「変わっている」のでは?

 

・・・と言い切る自信は正直ありません。

 

「普通」は誰とでも渡り歩くためのマナーなんだな、と最近気が付いたからです。

 

だから私もマナーを身に着けたほうがいいと思うし、

最低限「これはしない」ということを決めたほうがいいのかな、と思いました。

 

そこで私が「なるべくしない」と決めたことは、「なるべく乱暴なことは言わない」

ということです。毒を吐かないようにしよう、と思います。黒柳徹子さんの受け売りです。

 

というのも最近、すごく嫌なことがありました。

 

うーん、なんというかちょっと傷ついたことがあって、

それはその人が私に対して傷ついたことがあったから、そんなことを言うのかなあ、ということでした。

 

別にそのことがすごく子どもっぽいとか、鏡を見ているようだ、とかいうことにはしたくなくて、ただ単に「嫌だな」と思ったんです。

二十年ちょっと生きて単純に嫌だと思ったことって、まあ何回かありますけど、同い年の人に言われたのってはじめてでした。

 

「気づいてよ!」って声を上げるのってそれなりに相手に負担をかけているし、自分も負担になるんですよね。自分がどれだけ変われるか、適応していくことができるかということがとても大事な気がしてきました。

 

「普通」って、人によって全然違うなあ、と思うのですが

私がとりわけ大切なのは、人とうまくやっていくために何が大事なのかを考えていくことなのかな、と思いました。

 

そのためには自分のことをちゃんと好きになれたり、自分のことを知るというのが大事だと思うのですけどね☆

 

グローバル化ではなく越境性であってほしい

私のゼミの友達はどちらかというと「自分の信念」みたいなものを大切にしている人が多いみたいです。

 

それを「ふーん」って眺めていましたが、私もあんまり違いはなくて、ただ私が目指すのは「越境」であることなんだと思います。

国家同士とか、だれそれが難民である、ということ以上にその境界のはりめぐらしかたに興味があります。

 

今まで言語的な「越境」には興味がなかったけれど、翻訳という役割を超えた越境の仕方、に興味を持つようになりました。

 

自分ではない自分になる、違う場所に行ってみる、

でもそこに暴力はない。

 

そのような在り方が他にも続けばと思うのですが。