S先生の言葉

は、みんな大好き山田太一先生のエッセイなのですが、

私を支える言葉というものは確かにありました。

 

いっぱいあるんだけど、嬉しかった言葉。

「自分が損なわれたり、価値を脅やかすことがあったら、逃げなさい」。

 

 いや最近逃げてばかりのような気もするな、と思いながらそれでもその言葉は私を支えた。

 

その言葉はいくつかの呪いと辛さに対して一定の効力を持っていて、それができないばかりに苦しんでいたから。

 

うれしかった。

 

いやまあ他にも教えていただいたことは一杯あるのだけど。そしてたぶんそっちの方が重要なんだけど。

宗教に興味があるんですか?

っていうとびっくりされる。

 

私は興味がある。

そういう集団にいる人に興味がある。

 

神道キリスト教イスラーム も好きだ。(ブッティズムはそれほど)。

 

きっかけは、おそらく高校の時の友だちがさらりと言ったからだ。

 

「私、家が宗教を持ってるんだ。でも異端ってされてるやつ」

「そうなんだ」

「この辺は多いんだよ」。

 

へえ、という感じだった。

なんとなくなじめない様子があるのはそういうことだったんだ、と思った。

 

異端な人も異端じゃない人にも出会う。

そしてその人たちが何か特定の一神教を持っていることを疑問に思う。

 

いや、神道も好きだけどあれは結局藤原家がどうのっっていう話じゃん、とも思う。

 

結局外部に迎合されない部分を内面化して正当化しているだけなのだ。

でもそれに救われることもきっと多いのだと思う。

 

でも信じている人がしあわせそうではないのなら、何のために信じる必要があるんですか? と、素直に疑問である。

 

そういう集団が不思議。

 

内なる異性

河合隼雄先生の「夢にはアニムスとアニマがでてくるよ」を真に受けて、とても面白い夢を見たので書いておきます。

(つまり 備忘録)。

 

車の助手席に私aがおり、運転席には彼bがいる。

Bと私(A)は直接の知り合いで、しかし三年ほど前以来、Bとは会っていない。Bは私のことをとても嫌っていたという話があるけれど、直接話をしないまま会わなくなってしまった。

 

だからaはBの近況について尋ねたり、「お疲れさま」と声をかけたりした。

 

そうして運転されたままにすると、目的地に着いてからbは見せたい場所があるといい、aはそのことに同意する。bの思惑を察したaはいいよ と言う。

 

途中の信号で、なぜかbは車を置いたまま出てしまった。aはそれをbの都合だと信じていたが、Aの視点では、bはaが困ればいいとも思っていたのだろうと思った。

びっくりすることに、運転経験のないaは運転をすることができた。

基本的な動作を「夢の中で」したことがあったから、aは車を発進させ、少し先の駐車場スペースに車を停めることができた。

(現実に私にはそういうところがある。)

 

bは後から走って追いついた。近くに停めたから車の行方を知ることができたのだろう。

「運転できたのか」と訊いた。

「ううん、できない。夢の中でちょっとやったことがあったから」と答えた。

「見せたい場所があるんでしょ? 行こうよ」

 

そうしてジグザグに走り、変なところの停めることがあり、aは歌を歌った。

バッハのバイオリンパルティータ第3番だった。

 

いくつかトンネルを通り、

ある「知っている場所」を通り抜けた先に、チェスのルークの形をした公園の何かがあった。

そこに登って「これを見せたかったんだ」とbは言う。

すぐ近くに森があった。

 

そして私たちはキスをした。

たぶんaはbのその様子を前もって知っていたのだと思う。aの何かがbを揺さぶっていたことにも気がついていた。その苦しさにもaは気がついていた。

抱きしめる力は強かった。

 

結局、bはaが眠った時に建物に火をつけ、aをほかの二人と一緒に海の近くで縛って海に投げ込んだ。aは自分が海の中で沈んでいくことにも気がついたし、隣に別の女の子がいたことにも気がついていた。

 

そしてbは二人と歩き、「悪いことをした」というような話をしたあと、歩きにくいことに気づいた。

 

そしてaを助けに向かう。

 

もう一人の女の子は他の二人が投げ込んだが、助けられたのかどうかは知らない。

 

 

鳥が鳴いたところで目が覚めた。

 

うれしかったこと

授業があるんだと思って学校に来たら補講日だった、はちみつです。

 

大学生活も残りわずか。(だといいんだけど)。

テニスの授業も終わり、プレゼンも終わり、そうあとは卒論の書き直しだけ…です。

 

最近うれしかったことは、「はちみつさん」と学年下の人たちから言われたこと。

上下関係とか、先輩後輩の関係を今まで意識せず、フラットに生きてきたから「慕われてる気がする」という経験をしたことがなかったので、名前を読んでもらえるのは素直にうれしかったのでした。

 

(一応5個上くらいの人にはですますくらいつける)。

 

「話してみたら意外といい人だった」と最近よく言われるのですが、

もっと気さくに、いろんな人と話せるようになりたいなぁ。

 

寝覚めが悪い

夢の中で、私は福山雅治の隣にいた。

(お正月には水谷豊からイブサンローランのリップをもらう夢を見た。最近芸能人がよく出てくる)。

 

それは居酒屋みたいな場所だったと思う。

お会計の時、私はちょっと不誠実なことを言い、(「ここの値引きからこの値段だと言えます」というようなことを言ったのだが、その夢の中の常識では、それはかなり不誠実なことだった)。

 

私は福山からあることを言われ、

「あなたが好きだと言う映画も私は見たよ」と言った。

ちょっとしゅんとして外を歩くと、好きだった人たちが3人ほど現れて、(女の子含む)。そして私のことを「そんな人間だと思わなかった」と言う。

 

目が覚めると、その気持ちの悪さは生理になっていたことと(つまり肉体的なことと)相まっており、夢の中のことを整理して、一つの結論に至る。

 

私は、私の軽はずみかもしれない、でも私の中では完結しているそのことを、常識とはそぐわなくても、非常識だと言われ非難されることを極度に恐れているのだ。

 

私の中で常識とは「18歳までに身につけられた偏見」の総体を指すのだけど。

書く

長く自分がどういうものを好きなのか全然わかっていなかったのですが、最近

「嘘か本当かわからないけどリアリティがある」ものが好きなんだなぁということに気づきました。

 

アゴタ・クリストフとか芥川龍之介とか

モーパッサンとか。

 

就職試験で「書く仕事は隠し事」と書き、(アンネ・フランクについて書いた)、「そうなんだよなぁ。我ながら上手いことを言ったなぁ」と思っていました。

 

だから文化人類学とかとても抵抗があるのです。

あれって「俺が見てきたのは本当のことなんだよ!! これは!! ものの見方が変わる劇的変化なんだよ!!!」って主張してきてちょっと鬱陶しい。

(文化人類学者さん、ごめんなさい)。

 

オーラル・ヒストリーとかもありますけど、テープに録音されてしかも書かれるなんてもっとひどいと思いませんか?

 

証言の取捨選択をするくらいなら何かのために嘘か本当かわからなくても、何か「書いて」読む人が判断をすればいい、と思うのです。

 

「外国人が見たニッポンを日本人が面白がる」とかも最近よくありますけど、

ああいうのにも抵抗があります。

いやこれは私が卒論で使ってたことなんですけど。なんでそんなに馬鹿にするのって。

 

近代文学も近代歴史学も成立した今、きっと「自分の目で見る」ことがリアリティーのあることだと思っているんですよね。「百聞は一見にしかずってほんまやわー」みたいな。

よく見てよそれインスタで加工してるでしょ、みたいな。

(私はTwitterをこよなく愛しています。見たいものしか見えていないと言う点では同じかもしれない)。

 

はぁでもそれって本当に「見えて」いることですか? って思ってしまう。

あなたの見たものと聞いたものと伝えることは全て違うのだから、究極の独り善がりなんじゃないかって思うのです。

 

小説家をアーティストって言う人がよくわからない。自己表現できるのってすてきね、頭のおかしい人じゃないとそんなことできないのよね、なんて。

 

いやまあ和泉式部はやりすぎだと私も思わないこともないけど、自己表現ができるから芸術家が素晴らしいわけではない。

 

だからたとえ素人でも好き嫌いは分かれてしまう。

 

伝えたいことがある、口にすることなんてとてもできない。だから、

「書く」という行為が成立するのではないかと時々思います。

 

 

進路相談をしまくる

あけましておめでとうございます。(二回目)。

 

前に書いたブログを読み返し、「正月脳でふわふわしたこと書いてる」と嘆息しました、はちみつです。

 

将来についてどうしようか、うむうむと悩みながら人に話を聞きまくり、絶望し、楽観的な希望を持ち、絶望しを繰り返しています。

 

これはこうなんだー!! と決めたことが、簡単にいかないって確かに大変だ…。

 

では、私は今まで何かを選択してきた時、どうしてきたのだろう? と考えました。就職活動とかでよくあるやつです。

 

①自分の未来図(到達レベル)と現状を把握する。

 

私は文字も読めない、計算も頭に入らない、好きなことや情熱が抜け落ちてしまう…という双極性障害の状態を15歳の時点ですでに経験していたのですが、、、

この時、「推薦受験は無理。調子整わないから無理」。

と考え、「一般受験である程度今の状態から、お金を出してもらえるレベルの大学に行かなければ」となったのでした。

親から出されていた条件は、「この大学より下の偏差値のところにはお金を出さない」というものでした。結果的に功を奏したかもしれませんが、「大学に受からないと身体を売って生活するしかない」と思っていたので憂鬱でした。(家からも追い出されることになっていた)。さらに、関西には行くな、東北には行くな、という謎の無茶ぶりが連続し、志望校が必然と絞られてくるのでした。選択肢が少ない。

ということで、文字(日本語)も読めないレベルからある程度の大学合格というめちゃくちゃ高いハードルを掲げたのですが、結局どうにかなりました。

 

もちろん、自分が本当に行きたいと思っていた大学とはちょっと違ったけど、今の大学だからこそ学べていることもあるので、問題ないです。

そしてその大学は高校の方針と思いっきりずれていたところなので、まあしょうがないかなという感じです。

 

②私は死ぬということを受け入れなければならない。

 

別に「双極性障害だから~」と言い訳するつもりはないのですが、それでも私のストレス閾値はとてもとても低いのです。感覚過敏だし、薬を飲まないと死にかけます。

だから就職活動の前段階のアルバイトでとても苦労しましたし、元来の性格である「良くも悪くも自分の世界を持っている」ことにも苦労しました。

私は自分のことを普通と思っているから、「お前は普通じゃない」と言ってくる人たちの対処に結構苦労するのです。

 

いずれにしろ、自殺未遂経験のある、双極性障害1型の私は、診断を受けて以来「自分の脳に自分が死ぬことをプログラミングされているみたいだな」と思うようになりました。みんな、死んじゃだめだ、命を大切にしなくちゃだめだ、というようなことを言ったり、生きていくことを考えよう、と言ってくれたりするのですが、生きていくためには自分が「自殺をする確率が高い」人であることを自覚する必要があります。

生涯発症率は0.8%、日本における疫学研究では0.06%ではあるけれど、再発エピソードが増えるたびに自殺リスクも高まります。(諸説あり)

再発リスクは離婚、大切な人・ペットの死・引っ越しなどさまざまなライフイベントが原因になります。

でも、親の死とか環境の変化って避けられないことですよね。

だから再発リスクの予防には定期的なカウンセリング、服薬が必要になります。

 

その他、孤立状態を防ぐということも大切だと言われています。

(だから宗教共同体に定期的に通う人ってあんまり悪化しないだろうな・・・)

 

という諸々の事情を踏まえて、私は「自殺をするリスクが一般的な人たちよりも高い」ことを意識しておく必要があります。その予防に意味がないとは言わないけれど、そのリスクを考慮した時に、やっぱり「自分が死ぬリスクが高い」ことを受け入れないとだめだなあと思いました。

 

③でも私には知りたいことがある。

 

そう、私には知りたいことがあるのです。人の役にあまり立てそうにない私が、自分の潜在能力を精一杯使って、何かの役に立てばいいと思うことがあるのです。だから私は、無力感をいつも感じているし、「誰かの役に立ちたい」なんてエゴで、「自分をすくいたいから」かもしれないけど、自分が救われるためにも人の役に立つためにも、目指す方向に向かってできる限りの努力をしたい。

 

そうしたら、私が死ぬ時、私は、私の生も死も主体的に引き受けることができると思う。