曇りの日がえらく続くな、と思ったら涼しい風が入ってきた。
しとしとという音が聞こえてきて、まだ梅雨が明けていないことを知る。
七月の雨はいとしかった。
風が両肩を撫でた。
手元にはいただいた論文がある。
きれいにセロハンで包んでいただいていた。
おのづから 眼はわが前を見つめしに 人の眼がおどろきにけり
曇りの日がえらく続くな、と思ったら涼しい風が入ってきた。
しとしとという音が聞こえてきて、まだ梅雨が明けていないことを知る。
七月の雨はいとしかった。
風が両肩を撫でた。
手元にはいただいた論文がある。
きれいにセロハンで包んでいただいていた。
おのづから 眼はわが前を見つめしに 人の眼がおどろきにけり
暇つぶしにツイッターを見ていると、「勉強の大切さ」という漫画があり、ちょっと考えたことをログする。
(ログるっていいな、流行らせたい)。
つまり「勉強って日常生活のいろんなところで必要なんだ」って話なのですが、スキルとトレーニングとシステムとコレクションとしての勉強はそれぞれ違うと思う。
スキルとして:
暗算、読み書きなど何かを得るために要求されるもの。
トレーニング:
それ自体が目標になること。大学受験とか。筋トレと同じ。
システム:
体系的に考えるコツのようなもの。
仮定法は役に立たなくても仮定法という考え方が役に立つ、的な。
コレクション:
ある程度喜びを見出せる範囲での知識。
英語ができる、はスキルだけどトレーニングがないとできない。
還元率はシステムとしての思考ができないとわからない。
コレクションは大体どの人もできることだと思う。
そしてまあどちらかというと漫画にあった「勉強の大切さ」ではなく、どちらかというと「教育の大切さ」という話なのではないかと感じた。
トレーニングとして、スキルとしての勉強はいつでもできる。
でもシステムとして思考をするための勉強は確かに教育課程の中で身につけていかなければならないものかもしれない。
◇◇◇
「寮で楽しかったことは何ですか?」
って就活で聞かれた時、答えられなかった。
辛かった、というのが最初に抱いた感想だったからだ。
後になって、良い思い出だってあるはずなのに、なんで私は最初に辛いことを思い出してしまうのだろう、と考え直した。
そしてまた寮で飲み、朝起きて
「わたしはこの人たちとぐだぐだと話をしていることが好きだったんだ」
と思い返した。
好きな人もいれば苦手な人もいて、
それでもその人たちを好きだと今思えるのはすごいことなのではないかと思う。
何もなかったわけではなくて
ここにあったんだ、という気がする。
この場所を離れるけど
(なぜなら半年後には友達の寮生が抜けて、そしたらここにはもう泊まれなくなる。本当のお別れがある。)
私はここが好きでもあったんだと
言える。
そして好きな人たちがいたんだって思える。
卒業式はあまりいい思い出がない。
小学校の卒業式はこれからも同じ学校の人たちと付き合っていかなきゃいけない、という悲壮感で
中学の卒業式は名残おしいのに一人になってしまう感じだった。
(打ち上げとか、特に行かなかった)。
高校の卒業式はやっとこの高校とおさらばだぜ! という解放感が大きかったので、特に困ることなくさっさと帰った。
大学の卒業式はただひたすら面倒だった。(本当を言うと抜け出したかった)。
本当はもっといろんな人たちと話したり写真を撮ったりしたかったけれど、
「親御さんとの昼食会」で会えたのは数人だった。
「これから会う機会も少なくなると思うけれど、また会ってね」という言葉をどれくらい信じたらいいんだろう。
大学にいた人は誰もみんな知らない人みたいだった。
昨日の謝恩会の後使った武蔵野線のホームには、大学1年の私がぼーっと空を眺めていた。
卒業式前日の私がその様子を眺めているなんて露ほども知らず。
出会いがあれば別れもあって、時間は平等にすぎていくはずなのに、私の大学の思い出は全部が全部大学の中のことではない。
私にとってあの大学がどんなところなのかと振り返ると「ぼーっとするのにちょうど良い場所」だった気がする。
何も学べていない気がする。
何か少し学んだとしたらそれは、
ある講義だけだと思う。
蟲毒じゃないです、孤独です。
そういえばよく昔から、孤独を感じて生きていたなぁと思いました。
高校生の頃、オープンキャンパスで他の大学を訪れた時、「孤独になりそう」と思いました。畳の部屋で苦しんでいそうな自分が想像できたのです。
そして在籍していた大学では、まあ少なくとも「孤独」を感じることはありませんでした。よく、「一人でいてもいい雰囲気がある」とパンフレットとかに書いてあるらしいですが、私は今までそんなことを感じていたことがありませんでした。
どちらかというと、私は一人でいられなくちゃ困る人間なのです。
だから運転免許合宿なのに、なんで一人で来たの? と言われるととてもびっくりします。というか今まであんまり気づかなかったです。
え、だって一人になりたいじゃないですか。
二週間同じ部屋なんて、気心知れた友人とならまあともかく、運転免許というストレスも相まってなかなか大変なのではと思うわけです。
集団に入りたくても入れない、いても距離をとりたくなるという特性はここでも発揮され、私はついに「孤独」の名言集をネット検索するという、よく高校生の時にやっていた習慣を思い出したのでした。
そして私は寮にいた時に気の合った人たちのことを考え、尊敬する人たちのことを考えて、そういう人はみんな「ここではない、次の場所」を考えながら動ける人たちだったなぁと思い出しました。
だから私はいつでも一人だったことを思い出して、その寂しさ胸に刻んで、生きようと思うのでした。
西武線にて、レオ=レオニの「スイミー」の絵を使って#まとまると強い
と書いてある広告を見た。
みんな大好きレオ=レオニ。
ねずみのフレデリックがでてきて、その水彩画によって大人も見るのに夢中になるレオ=レオニ。
スイミーは、まとまると強いだけの話ではない。
自分だけ黒い魚で、同じ種類の赤い魚たちから若干馬鹿にされていた。そこで海へ行き、ゼリーみたいなクラゲをみたり、なんのかんのと感動して、仲間たちに「広い海へ行こうよ」と言う。
仲間たちはマグロがこわいとか言ってなかなか海にでたがらない。
そこでスイミーは「そんなら僕が目になるよ。」といい、小さい魚たちは大きい魚になりました、
という話だったと記憶している。
だからまとまると強いのではない。
スイミーさんが「お前は違う」と言われてもいじけず、冒険をして、アイデアを生んで、その通りに集団を動かしたことがすごいのだ。
スイミーさんがいわゆる「個性」を発揮しながらリーダーシップをとれてることが「強い」のである。
小学2年生の私はスイミーさんに感銘を受けた。
そして赤い魚たちみたいにはなりたくないと思った。
教科書の教訓はそういうことだと思ってた。
もし22歳の私が8歳の私に話しかけるとしたら、「スイミーさんはあのままでは他の魚に食べられていたでしょうね」と一応言う。
そして続ける。
「とはいえ、この作戦はスイミーさんがいないと成り立たないですね」とも言うと思う。
このお話は「まとまると強い」のではなく「いかにスイミーさんのような人が必要か」、という話に思われ、「スイミーさんを目指せ」と言われてるような気さえし、だからこそ「まとまると強い」という広告に違和感があるのである。
国語の教科書にのってた話だけど、なぜあれが採用されて、そしてみんなどのようにあの話を読んでいたのか知りたい。
良いニュースは小さな声で語られる。