2年生の時のゼミの先生が、当時の3年ゼミでのテキストとしてサイードの「知識人とは何か」を用意していたこと、
先のブログで「知識人」という言葉を使ったことで、
「そういえば知識人ってなんだっけ?」と思い、本棚にあった平凡社の文庫本を引っ張りだしました。
第一章の「知識人の表象」から、考えたことなどをまとめておこうかと思います。
えーと、まず問題意識として「知識人に憧れる」とはどのようなことか、という疑問がありました。
私は研究者とか、ウェズリアン大学の奨学生に憧れるだけの凡庸な大学生なのですが、Twitterを眺めたり、寮生活を送っているとどうも「ひねりのきいたことが言える」というのがクールなこと、という風潮がある気がします。反対にそういうことの反動として農業とかコミュニティ、シェアという文化に憧れる人が多かったり。
第1章では、グラムシ、バンダ、グールドナー、C.ライト.ミルズなどを引用し、展開しながら「知識人」の定義を明らかにしていました。
私が前の記事で使っていた「知識人」はどちらかというとグラムシの言うものに近く、サイードの要約を引用すると
「今日、知識の生産あるいは分配のいずれかに関わる分野で仕事をしている者」ですね。また、最近感じていた世間の風潮はグールドナーの「知識人はいまや、かつて資本家や地主階級がつとめていた役割をかなりの部分で肩代わりするようになった」という言葉に集約されます。
サイードの明らかにする「知識人」は、公的に自分の考えたことを肉付けして明晰に言語化できる能力を持った個人、ということであり、そうしたことに存在意義を見出せる人間
ってことのようです。
サイードはこのような個人は〈普遍性の原則〉を前提にしていると言います。
すなわち、
①あらゆる人間は、自由や公正に関して世俗権力や国家から適正なふるまいを要求できる権利をもつ
②こうしたふるまいの規律が無視されるならば、そのような侵略行為には断固抗議し、勇気を持って闘わなければならない
また最後に、「知識人」を「批判的センスに全てを賭ける人間」でありながら、「自分自身を見失わずにバランスをとりながらどこまで奮闘をできるか」探求していくこと、とあります。
このことは絶えず批判されまくりの私にものすごく大きな勇気を与えてくれましたが、
サイードの言う「知識人」はいつでも・どこでも「発信」のできる現代社会においてはこれだけでは説明不足なのではないかと感じました。
その背景となる「知識」やエビデンス、共感や受容といったことも同時に培われなければ、メディアの発達した現代では損なわれていることも多くある気がします。