「何者」論

はてなブログプロで(たしか)精神科医しろくまさんの「何者論」を読んだ。

 

一行で要約すると、「何者にもなれていない」と感じる人は、理想像が高すぎて不一致間を感じているというのだ。

 

このことはものすごく腑に落ちて、三十分前に私が「FacebookInstagramをみると疲れるんだよな。かといって石田ゆり子になりたいわけでもないし」と漠然と思っていたことに答えを半分だしてくれた気がする。

 

SNSのほかに、私が最近チェックしている番組として、「ねほりんぱほりん」がある。

 

地下アイドル、ホスト狂い、トップオタクとみてきた中で、共通していると感じたのは、誰もが「認められたいんだなあ」ということ。

かわいい、すてき、あなたが一番として認められたい。

 

番組で山里亮太さんも言っていたけど、「みんな いいね が欲しい」時代になったのだ。

 

いいねがほしい、とはつまり他者による評価が欲しいということだ。

それでは自分で自分のことを肯定できない原因には何が潜んでいるのだろう。

 

一つには、どちらでもないように見える自分をまるっと抱きしめることができない、世間の視線があると思う。その視線には中間がなく、グレーがないように見えるに違いない。いいか悪いか、正しいか正しくないか、正常か異常か。そして極端ではなくて、その中でも自分の個性を見せなくてはいけない。ベルボトムが流行してスチャダラパーを聴いていた時代とはそこが違う。マイノリティーと言えば、という代名詞がもう2010年代後半にはない。

 

選ぶアイコンが多くなった分だけ、自分が選び取るものが難しくなっているのである。

 

二つ目、「必要以上に自分にコンプレックスを感じすぎている」点。

学歴も性格も、なんとなく「いろんな人がいるよな」と思って公園に集まって缶蹴りをする古き良き時代は過ぎてしまった。ドラえもんでたとえれば、出木杉君は出木杉君と似たようなタイプとつるむし、のび太はもっと卑屈な人間になっているし、しずかちゃんが現代にいたら絶対のび太みたいなタイプとは話さない。

 

なんとなく似た者同士でつるむし、お互いのことを「あいつはなー」なんて目で見ているから逆にみられている自分に落ち度がないか恥じ入ってしまうのだ。

他者を通しての自分が観れていないから結果的にコンプレックスが助長して自分の恥と罪ばかりに目が行ってしまう。

 

・・・と具体的な事例もなしに挙げたけれど、それらはすべて、私が寮に住んでいた時に関わっていた人、関わっていた大人をみていて思うことなのである。だから他の人がどうとかよく知らない。でも大学でも人の目を気にする人はかなり多いと思う。

 

私は自分のことをかなり無神経なほうだと思う。

 

よく人をいらだたせるし、「開き直ってるんじゃねえ」ともいわれる。

つらい。

 

人の神経になるべくさわらないようにと考えたら、引きこもってしまうしかなくなってしまう。

 

だから私は、匙加減を探しながら人に会い続けるのだ。

 

何者になるかもわからない。平凡なOLになれたらいいと思う。

 

平凡になることが高い理想だったら、どうしよう。