岡真理「蟹の虚ろなまなざし、あるいはフライデイの旋回」

「あなたは岡真理を読んだ方がいいよ」と何回か言われ、そうねぇとうなずきつつも、手に取ったのは大学4年生の秋になってからだった。

 

『彼女の「正しい」名前とは何か 第三世界フェミニズムの思想』、2000年、青土社

 

「蟹の虚なまなざし、あるいはフライデイの旋回」は、

共感したということの錯覚性、不確実性について映画や小説を題材に言及したエッセイだ。初出は『現代思想ジジェク特集、(1996年12月号)、青土社

 

題材は「セブン」(アメリカ、1995年、監督:デイヴィッド・フィンチャー)、ケビン・カーター「ハゲワシと少女」1993年、J・M・クッツェー「敵あるいはフォー」1992年、スラヴォイ・ジジェク「快楽と転移」1996年の4つ。

 

「共感がすべてではない」とか「時にはそれが暴力の一端を担う」という主張で、「共感」が大好きな私にとっては「なるほど」って感じでした。

(これも共感なのかしら。)

 

後半では「他者の声なき声を伝える」ことの傲慢さについても述べられていて、ぜっさん卒論のためのフィールドノートをつけている私にとってはぐさぐさくるものがありました。

やはり改めて「傲慢だなぁ」と思うと人類学より歴史学の方がいいなぁと思いますよね。歴史学について詳しいわけじゃないですけど。少なくとも誰かの書いたテキストを巡る解釈は一つの見方でしかないことがはっきりしているわけだし、議論をすることができる。それに比べて「質的調査」とか「臨床心理」とか「文化人類学」ってかなり閉じられたようにも感じます。それを編集するという行為そのものが。

 

「空気は読めない」ってよく言われるけれど自分で「共感がすき」だと思う私は、ここで言及されている「他者との同一化」の錯覚/幻想について、意外と思うと同時に興味深かったです。

 

「共感」も結局は知覚の仕方の一つでしかないということが切り離されているから、だと思います。

「共感」は時に利用可能なものであることや、テクニックとして用いることができると意識しないからこそ、共感することは純粋に「他者と自己を同一化すること」とイコールになってしまうのではないかとさえ思うのです。

 

ということで、このエッセイを読んで思ったことは疑う・あるいは可能性をできるだけ考えるということと、自分が他者に対して同一化するのではなく、どこまでが自分の領域でどこまでが他者の領分なのかを知る必要がある、ということ

 

それから「共感」はどんな種類の、どのようなものがあるのか、ということでした。