サワディカー
いよっす
私は社会人半人前の23歳女子はちみつ。
最近「卒業旅行」と称して(実際そうなのだ)、バングラディシュの首都ダッカとタイ、バンコクをうろついていた。
バングラディシュは資本主義の負と正を煮詰めたような街だが、世界は道端で売られてるチャーほど甘くはない。
ダッカでは物乞いから英語のできるエリート大学生、ビジネスマンと様々な人に出会ってきた。
ある人は言う。
「本当にバングラディシュを知りたいと思ったら農村がいいよ。ダッカはつくられた街だ」。
その言葉を受けて、私はあたりを見回す。
照りつける日差しの中、カンカンと音を立てて木材を建築する男たち。
日本だって、ここにいる人たちみたいに成功を信じて建物の釘を打つことから始めていたはず。
なのにどうしてこの街の人もいわゆる日本人も何かに満たされないような焦りみせるのだろう?
(少なくとも私には両者ともに余裕がないように見えている)。
そして帰路、バンコク。
ウォーターメロンミルクとココナッツケーキを食べながら、私は日本風温泉「湯の森」で「日本ってなんだっけ?」と改めて考え続けていた。
「湯の森温泉」は「日本以上に日本的」なスパである。
温泉には暖簾がかけてあり、そこまでの道では風車(かざぐるま)がからからと廻っている。
利用者はお金を払ったあと、数字のついたリストバンドをつけて入場となる。
男女別れたあと、バスタオルと「あるもの」を受け取って案内の通りに進む。
靴を脱いで草履に履き替え、(館内履きのような扱いだ)、さらにそれも脱いで脱衣所へ。
リストバンドを脱衣所前の棚に近づけるとかちっと中から扉が開く。扉を閉めると外からまたリストバンドを近づけないかぎり開くことはない。
私はタオルを持って胸の前にそれを下げ、温泉に入ろうとする。
からからと小気味よくドアを開けたあと、
バスタオルの中に挟まっていた「あるもの」が温泉用のブラジャーとパンツなのだとわかって目を見開く。
衝撃。
あっ 海外ではニップルを隠すって昔教科書とかで読んだ気がする。
(だから温泉ってありえん! って思われちゃうんだっけ、とか)。
え、でもさでもさ。
黒い布でおっぱい隠す方が俄然エロくない?
わざわざ隠すってエロくない?
日本で銭湯に行けば老いも若きも裸体を晒すのだ。
いやまあ確かに私は人の裸も見るし、ついでに自分の裸もみて「いや 若いわー 肌が水滴を弾いてるわー」とか思っちゃうんだけど、
え、でも隠すて!
そういう工夫があったのか!
(ここではいわゆる温泉慣れしていない人たちに温泉を普及するためにこういう工夫があったのか、ということです。)
とはいえ違いと言えばそれくらいで、
あとは日本でもお馴染みの、
一人でぼーっと湯につかる人、
健康なのか何なのかゆっくり温泉の中を移動する人、
横になってバスジェットの泡を腰や足にあてている人、
露天風呂と樽風呂の間にありがちな謎の椅子に座ってタオルをかけて寝てる人など
それぞれがそれぞれのやり方でくつろいでいた。
私はそんな中で同じようにお湯につかり、湯冷めがてら椅子に座ってうとうとしたりして
「なんか日本って取り残されちゃってるよな」
と漠然と思ったのだった。
バンコクの高いビルも高級なショッピングモールも、全てが豪華で先進的なものに見えた。
加えてタイ式マッサージと手を合わせてにこってしてくれる「お・も・て・な・し」、日本の「カルチャー」を取り入れて繁盛して、(仮にも温泉大国群馬県出身の)私がファンになってしまうくらいのクオリティを提供する環境。
東京オリンピックが終わっちゃったらどうなるんだろう、と本気で思わずにはいられない。
と、思った時、
ダッカで感じた焦りもタイで感じるその国の勢いも、
それらは全部、いわゆる「私たち」が見ないふりをして捨ててきたものなんじゃないかというところに行き着いた。
余裕なんてないのに余裕のあるフリをして、
浮かれて騒いで今までの泥臭さみたいなのを全て覆い隠して、
本当に自分たちが大切にしていたこと(たとえば温泉で裸体を晒していてもなんにも気にしないでいられてたオープンさ、とか)をどこかに置いてきてしまったのではないか。
そう思ったら上司(63歳)がポツリと呟いた、
「どうしてここまで日本が弱くなってしまったのか」
という答えの一つが見つかったような気がした。
「私たち」は、何かに向かって進んでいるようで、とっても大事にしていたことを忘れてしまったのではないでしょうか。
こう...たとえば 人の肌のぬくもり、とか。