ボフミル・フラバルの「わたしは英国王に給仕した」を読み終えました。
主人公はホテルの給仕をしていたチェコ人の男で、彼のコンプレックスは背が低いこと。
ちなみに彼が給仕したのはエチオピア皇帝であって、英国王ではありません。
この人はあまり本心を語ろうとしません。
その時々ではぐらかすような物言いをして、何が本当のことなのかを隠します。
たとえば彼がホテルマンから無視されていたのは、本当に彼のホテルが嫉妬を買うようなものだったのか? とか
彼の釘を打つ息子は本当に彼の子どもだったのか?
といったことです。
お金を床に並べて満足したり、女の子のお腹に花びらを飾って喜んでいるところは、本当に彼の「小男」らしいエピソードで、それがなんとも人間らしく、またなんとも浅ましく思われます。
全編を通して読みながら思い出したのは、
「ノルウェイの森」の緑が言っていたことです。「あなたは他の人に理解されなくてもよいと言うふうにみえる。それが他人には傲慢にうつるのではないか」という。
彼の喜びも、彼の浅ましさも、それを理解できるのは彼の物語においては彼の「正反対の友人」のみで、もっといえば読者しか彼に寄り添うことができないような錯覚を感じます。それほどまでに、彼は「何も見ないし何も聞かない」し、「全てを見るし全てを聞く」ボーイ精神を徹底させています。
振り返ると、私たちの生活、ひいては人生でさえ確かにある視点からすれば滑稽です。
たとえばーー
私は普段、ありとあらゆる締め切りを延ばしがちなんですが、仕事になると、「常識の範囲内で」という言葉を使ったりします笑。
これに気がついた時、「どうしてそんな馬鹿みたいなことをしゃあしゃあと言えるんだろう?」と思いました。 本当にため息をつきそうになるのですが。
そういうため息をつきそうな場面を考えると、
チェコ人の彼はいくらか正直な人です。友人に対して、「僕はこんなこと期待していないんだ。僕は君とは正反対の人間なんだ」と言える人はそんなに多くないでしょう。まあ、友人だからこそ正直になれるという点もありますが。
私はこの小説を読んで、これほど私たちに等身大の、不器用な、愛すべき友人に会えたことはないと確信しました。
この孤独なチェコ人の男を通して、私は自分が築き上げた人生の哲学や罪や狂気や孤独を抱きしめることができるだろうと思うに至ったのです。
大学生までの私は、人や自分に苛立ったり、恥ずべきことをしたとか、そういうことを見ないでいられました。(おそらく)。
今は自分の醜いところや恥ずかしいところを毎日みています。
一流の給仕人はどうやら、常にありとあらゆるものを見、ありとあらゆることを聞き、肝臓病なのかスプリット出身のユーゴスラヴィア人かイタリア人かを見分け、ガーリックなしのトーストを注文するか臓物スープを注文するか判断を下すことができ、英国王かエチオピア皇帝から勲章がもらえるようです。
しかし一方でソコル出身であってもナチスを迎え、祖国で人が死んでも検査のための精液を排出し、知的障害を持った子どもの行方も知れぬまま森でポニーと暮らしてフランス語の詩の美しさ(受け売り)を田舎の居酒屋で披露することもできるようです。
そういう人生が幸せかどうかはわからないけれど、彼は最後に道をつくることを選び、ささやかな幸せを感じることができました。
まあ、そういう老人にはなりたくないなというのが私の正直な感想ですが
ある人の人生は物語の連続なんだということをまた知ることができたのはこの人のおかげです。