ブラックスワン

「白雪姫」を観た後に「ブラックスワン」を観て、

そのセレクトに「良いセンスしてる」と自画自賛しました。

 

これも高校生の時に観た映画で、その時は「なんで怖いのかよくわからないな?」と思いながら見ていました。

最後のスポットライトと、背中から翼が生えてくるのだけは覚えていました。

 

どんな映画だっけ~? と思い出しながら観ていて……

サイコ・ホラー映画よりサイコ・ホラーでした。

高校生の時の私は白鳥だったのだと思います。

 

〇あらすじ

 

 主人公はバレエ・ダンサーのニナ。

 ある日、「白鳥の湖」の主役を踊っている夢を見る。後日、稽古中に新解釈の「白鳥の湖」が発表される。今回の「白鳥の湖」の特徴は清純な白鳥と、大胆で悪魔的な黒鳥の二役を担うこと。ニナは振付師からは「白鳥は完璧だ」と評されるが、黒鳥については振付師の求める演技ができない。ニナはその潔癖な性格ゆえ、「白鳥」は踊りこなすことができるものの、「黒鳥」の型破りで衝動的な動きを会得することができず、苦心する。

 オーディションの後、ニナは大胆にも化粧をして振付師に直談判しにいくが、「君には白鳥のイメージしかない。美しく、臆病で繊細」「だが激しい感情を表せない」「主役は別に決まった」とあしらわれてしまう。帰ろうとするニナに「説得しにきたのではないか?」と突然キスをする振付師。ニナはとっさに拒絶反応を示して、肩を落として帰ろうとする。

 だが、その直後の発表で、自身がプリマドンナに抜擢されたことを知る。

 この日から、ニナの日常は少しずつ崩れ始め……。

 

 というお話。引退の決まった大先輩ベス、振付師、大胆な動きを得意とするライバルのリリー、彼女のために夢をあきらめた母…とすでにこれだけで普通の人なら振り回されそうな人間関係ですが、ニナはダンサーとして「完璧」を求め、果敢にも黒鳥に挑んでいきます。

 一度観た時は、「その狂気性ゆえに役に憑りつかれたダンサー」とサラっと観ていました。

 二度目に観ると、「あぁこの振付師は単に芸術というものを探してるだけなんだな」とか、「リリーめっちゃいい子じゃん!!」とか、「なんだかんだお母さんは心配しているんだな」「本番のミスはやっぱり男優のせいだな」とか別の見方ができてよかったです。大先輩ベスは……ベスだけはちょっと擁護ができません。

 

 不穏な感じのカメラワークが観客の不安を煽り立てます。傷とか鏡とか、いたるところにその工夫があるので、観る人はどこまでが幻想でどこからが現実なのかがわからなくなるのです。

 他にキーアイテムとして見られるのは、主役発表のパーティー会場でみかける「サモトラケのニケ」を模倣している像。「ニケ」は両腕が翼になり、首から上が失われている勝利の女神の像です。会場にあったのは、首はあるものの、顔をはぎ取られたかのような像。

 翼を生やした勝利の女神のようになるには、自分の持てるもの全てを使って臨まなければならないんですね。どこかの国のお姫さまのように、最初から主役であるのではなく、この世界においては主役は「勝ち取る」ものなのです。

 絶対的な自分を保ちながら、自己の超越に挑むことは、誰もが抱える課題ですが、ニナのように両極端なものが要求される場所だと特に厳しいと思われるのではないでしょうか。

 さらにニナが追求したいのは「完璧であること」。そのストイックさゆえに彼女は徹底的に堕落にふけろうとします。

 

 でもこの映画を観て、疑問に思うのは、「天才とは狂気、な、のか?」ということです。自己破滅に追いやるのが才能の正しい使い道とは思えません。

 むしろ、自己を破滅させないように才能とはつかわれるべきであって、そういう意味では主役のニナは「きわめて普通の女の子」なのではないかと思われます。

 

 この映画はどこにおいても「両面性」が意識されていて、観終わったあとも頭がくらくらします。視覚の工夫はサイコ・ホラーとしてもホラーとしても随所にされていますが、とりわけナチュラルなのが、主役が決まったその日、母親がケーキを買って帰るシーン。

 見るからにとても大きなケーキなんですが、お母さんは「バニラとイチゴのケーキよ!」というだけでその大きさや甘さには言及していません。観客が観る限り、それはとても大きいケーキです。ニナの反応を見る限り、そのケーキは「とても大きい」し「カロリーたっぷり」に思えるのですが、お母さんはそのケーキが大きいとか甘すぎるとかいうことには気づいていないようなのです。

 観客は、「このお母さんは本当に娘のことを祝福しているの?」と疑念を抱きます。

 でも、そのケーキは単にバニラとイチゴのケーキなのであって、お母さんからしたらそこまで大きくもないし、カロリーが高いわけでもない、としたら……? つまり、観客の見ているケーキが、映画に仕掛けられているその他の幻覚と同じように、極端なものになっているとしたら、この時ニナの反応は普通だと言えるのでしょうか。

 このように、何が幻覚で何が現実なのかがわからない、その両方が入り混じった世界が観客に提示されます。

 

 個人的なことを書くと、私自身物事を両極端に考えて、「どっちつかず」な答えをだしがちなタイプなので、こういう演出が本当に嫌です。苦手を通り越して嫌悪感を感じます。

 

 だからこの物語の全ても、「どれ一つとしてほんとうのことはない」と考えられたらとっても楽なんですが、やっぱり「ニナは完璧を求めたよね。それはスポットライトが

まぶしく見えるような、そういうパフォーマンスだったんだよね」と言いたくなります。それだけは本当のことであってほしい、とやっぱり思ってしまうのです。

 一方でやっぱり、「これは映画の出来事。すべてはフィクションのなせる業」とも結論づけて楽になりたいと思うこともあります。

 

 映画、「ブラックスワン」が教えてくれる教訓はいたってシンプル。

 

 どっちかわからないときは、自分の中での「視点を固定する」ということ。物の見方をシンプルに決めておけば、何かを観て迷う、ということはないはずです。

 というわけで、高校生の頃、「ほーん」と眺めながら観ていた私は正しい観方をしていたのですね! だって「スポットライトだけは本物だ」と思っていたのですから!!

 

 でも「スポットライトだけは本物」って、観方を考えたらものすごくバットエンドなのでは……うっうっ。

 というわけで、新たに本物だったと思うものを追加したいと思います。

 

 それは、ニナの「パフォーマンスにおいてパーフェクトでありたいという気持ち」です。

 バレエがわからなくても、それだけは唯一絶対のものだったと思うんですよね。

 だからアカデミー賞を受賞したのかな…と思ったり。

 

 それでは次は、ノンフィクションを題材とした、ジュリア・ロバーツ演じる「エリン・ブロコビッチ」です!

 

(追記)

 ありえないことが急に起こる、ことをブラックスワンセオリーというそうです。

 ほんとかよ、とツッコミそうになりますが、コロナウイルスの脅威を抱く現在の社会はまさにブラックスワンセオリーのもとに動いていますね。

 何が「おこりえる」ことで、何が「おこりえない」ことなのかを見極めるのは、PCR検査よりも難しいことなのかもしれません。