二つの白雪姫

 お話、というものがめっきり読めなくなってしまって、渇ききった今日この頃。

 

 森の中にいるような、苦しくて仕方のない時期に、私はよく映画や本を読んだ。

 中学・高校の頃、私をすくってくれたのは「中国行きのスロウ・ボート」であり、「夜と霧」であり、「もう一人のシェイクスピア」であり、また超B級映画の「チャーリー・モルデガイ」であった。

 大学生になって、授業を受ける中で「ヒロシマ・モナムール」とか「太陽を盗んだ男」とか見させられたけど、「映画や小説がおもしろいのはあたりまえでしょ?」と思って、どっぷりその世界につかることができなかった。

 

 そうして今再び、物語の力によって、エネルギーをもらっている。

 

 「クーリンチェ少年殺人事件」とかを観て、「やっぱり小明に共感することっていっぱいあるわぁ」と思うこともあるけれど、なんとこの時期、私の心を惹きつけたのは「白雪姫」であった。自分でも早く大人になりたい、と思うのに、ちょっと前まで小津安二郎の映画にいたく感動したりしていたのに、私の精神は再びおとぎ話に戻っていったようだ。

 

 「白雪姫と鏡の女王」、「スノーホワイト」はともに2012年に発表された「戦う白雪姫」を主人公とした映画。

 当時、石岡瑛子さんが亡くなったのと、映画の公開時期が重なったことでちょっとした話題になった。

 

 高校生の頃は、「鏡の女王」よりも「スノーホワイト」の方が面白かった記憶がある。先に「スノーホワイト」を観ていたく気に入り、「鏡の女王」は「まあ面白いじゃん」程度であった。

 それが現在は、「鏡の女王」の方が「面白い」と思うし、それに比べて「スノーホワイト」はなんだか白けてしまう。

ということで、二つの白雪姫について感想を述べていく。

 

 「白雪姫と鏡の女王」は、白雪姫をリリー・コリンズが、鏡の女王をジュリア・ロバーツがそれぞれ演じている。ストーリーはグリム童話の「白雪姫」の大筋を辿っていったもので、原点と異なるのは、「毒リンゴを食べて眠る」というシーンを挟まない点。眠らないので王子のキスによって目覚める必要がなく、むしろ姫の方から(積極的に)王子にキスをする。

 興味深いのは鏡の女王の方である。彼女は鏡の世界を行き来し、魔法の鏡は「私はあなたの影である」と明言する。鏡に映る彼女は、女王の分身であるという点に自覚的だ。

ラスト、崩壊していく世界であっても、分身たる彼女は「やっぱり白雪姫の物語でした」と結論付ける。女王はほんとうは周りを虐げていることに気づいている。そればかりか、常に消費をしていること、美を求めるための自身の愚かなふるまいにも気づいている。気づいていてなお、止めることができない。

 

 (また自分でも悲しくなるのだけれど、側近のブライトンに共感してしまう自分がいる。高校生の頃は「同情」であったはずだ。それが自分でもちょっと赦せない。)

 

 心美しい「白雪姫」でありたいと思うし、彼女みたいにありたいと思う。ありがとうごごめんなさいが言えることは大切だ。盗んだお金を村人に返し、それを「小人のおかげです」と言える精神を見習いたい。

 けれども女王の気持ちもちょっとわかる。さすがに夫を竜にする精神はちょっとわからないけれど、華々しい生活にのめりこみ、それが苦しくてもやめられないのはわかる気がするのだ。その生活にのめりこめばのめりこむ程、人として大事なものをどんどん失ってしまうのに、それがやめられないのはわかる気がする。誰かに止めてほしいのに、止められなくて困っているのだ。だから鏡の中の彼女はわりと良識的だし、(若くてお金のある王子と結婚せよ、と節操のないことは言うけれど)、魔術を使うとき、彼女は目をつぶる。良くないことをしている、という自覚がある。

 

(王子に子犬用惚れ薬を出したのはコメディ要素の多い演出だと思われる。確かに、惚れ薬はもうないわ、と言ってはいたのだけれど)。

 

 さらに、直接手を下さなくては、と言いながら直接手を下すことはない。そしてそれが最終的な身の破滅を招くわけでもない。彼女が破滅するのは、渾身の力でもって直接手を下そうとし、敗れる時である。さらに破滅をするその前、白雪姫には「負けを知ることは大切でしたよね?」とまで言われてしまう。

 女王と観客が救われるのはまさにこの瞬間である。

 彼女が最初に白雪姫に「負けを知ることは大切よ」と言った時、彼女は男爵と人間チェスに興じていたが、この時女王は男爵相手に勝利をしている。つまり、彼女はそれまで「負け知らず」なのである。そうやって誰も彼女を負かすことができないために彼女は苦しんでいたのであり、また白雪姫を追いつめることに躍起になっていた。

 苦しむ彼女は彼女の世界ごと消滅し、白雪姫は「I belive Love」と歌い、人々は踊る。

 

 クレジットで女王も老婆の姿で残ってくれないかな、とちょっと期待したけれどその姿はなかった。やはり「負けを知ることは大切」なのである。

 負けを知った後は外の世界に出かけ、自分のできることを探さねばならない。その時に出会った人たちはおそらく、勇気を与えてくれるだろう。そのようにしてまた邪悪な何かと戦った後に、王国には歌と踊りが取り戻されるはずなのだ。

 

 このように「白雪姫と鏡の女王」は物語が円満に、また円環として完結する。

 

 「スノーホワイト」は「恋」や「愛」には重きが置かれない。妖精や聖獣が存在する世界にも関わらず徹底してキリスト教精神が貫かれている。(何故に小人が主よ、って唱えるのかイマイチわからない。前後の文脈を読むに、彼らは小人という「種族」である。にも関わらず「主」を信じている。このあたりも「白雪姫と鏡の女王」とは異なる。)

 そしてスノーホワイトジャンヌ・ダルクよろしく民衆に蜂起を掲げ、城に突入する。彼女は毒リンゴによって眠りにつき、猟師のキスによって目覚めるものの、恋とか愛の類は信じていないようだ。物語の終盤は結婚式ではなく戴冠式によってしめくくられる。

 「スノーホワイト」における女王を演じるシャーリーズ・セロンの演技は必見である。「鏡の女王」のジュリア・ロバーツは物語が破綻しないよう、徹底的にコミカルに女王を演じきっていたが、シャーリーズ・セロン演じる女王に、観客は共感せざるをえない。「スノーホワイト」においては、彼女の演技があったからこそ破綻しないでいられたようにも思える。女王ラヴェンナには観客からの同情が寄せられる「設定」がある。幼い頃に村を焼き討ちされた際、「復讐して」と告げられたこと。その「復讐」のみによって生き続けていること。昔、恋をした男に裏切られた悲しみ。

 女王ラヴェンナは実の弟ですら信じることができず、常に涙をみせるか、怒りをたたえているかしている。スノーホワイトと対峙した場面においては、彼女ははっとした表情で自身に立ち向かう少女を見つめる。スノーの眼差しの中に、もしや昔日の自身を見出したのではないかと、観客に想起させる演技である。

 スノー自身はおそらくそれを知らない。ラヴェンナの中にある深い悲しみや苦痛を知らぬまま、むしろそれを払い除けて女王として戴冠式を迎える。そればかりか一度キスをかわしたウィリアムや猟師についても、臣下としてみなし続けているかのようなのだ。

 女王ラヴェンナは幼馴染ウィリアムの姿で毒リンゴを差し出し、「愛は裏切るものだ」と伝える。その後、ウィリアムがスノーにキスをしてもスノーは息を吹き返すことがない。猟師の妻への変わらぬ愛が眠るスノーに伝えられ、彼のキスの後、彼女は目覚める。その後、侯爵に「死から復活したのですね」と言われても、「誰も死から逃れることはできない」とスノーは伝える。

 私には、スノーが愛を失ってしまったかのように見える。

 女王を刺した後、彼女は「私の心臓は誰にも奪えない」と死にゆく女王に伝える。スノーがもし、女王の「愛は裏切るもの」という呪いを解くのであれば、キリストのように裏切り者を愛せたはずなのでは? と思ってしまう。

 だから戴冠式で終わるラストも釈然としない。

「もし、彼女が人を愛することができなくなって、ラヴェンナのようになってしまったら…?」と不安になる。

 ラヴェンナは刺されて死ぬけれど、彼女から受けた呪いを克服できたのか? に関しては疑問が残るままだ。

 スノーを演じたクリステン・スチュワートは、前半、ものすごく活き活きしているように見えた。ためらいなく逃げるし、ためらいなく怪獣に接する。けれども後半――特に、目覚めた後の演説――では、前半でみられたスノーの、どんな状況でも切り抜いてみせるような、「生き抜く力」のようなものが奪われているようにも思えた。

 リリー・コリンズが一貫して「清らかで生まれながらのプリンセス」であるのに対して、彼女はどこか「仕立て上げられた少女」である感が否めない。継母である女王がそれまでに感じていた苦痛や悲しみや怒りに彼女は気づかない。意識的に撥ね退けるのではなく、「無自覚」でいる。

 これはスノーの勝利と言えるのだろうか?

 

 スノーは自覚的であるべきだったと思う。自覚的でいながらなお、女王を払いのけるべきだったと思う。

 

 だから私はスノーを応援したい。女王になっても、妖精に認められたその清らかさを失わないでほしいし、よしんば失ったとしても、仕立て上げられてしまったとしても、持ち合わせていた生き抜く力を使って、強く強く生き抜いてほしい。大変なことだと思うけど応援していたい。

 

 二つの白雪姫を観て、原典のグリム童話に通じることだと思うけれど、これから自分の年齢と戦っていかなければならない、とやっぱり思うのだ。年を重ねるにつれて、人は自分の持っていた力が失われていくように感じるだろう。それを「若さ」のせいにしたくなる時もあるかもしれない。間違いなく体力や見た目は衰えていくだろう。だけど年をとっても美しくあることはできるはずなのだ。ちゃんと戦うことができる限り。その戦いを放棄してはいけないし、時に「負ける」ことがあったとしても、逃げ出したくなったとしても、信じるものがあればいいと思う。

 

 ジュリア・ロバーツ演じる女王の、とても好きなセリフがある。

 「たとえ何度でも――結婚式って大好き!」

 お付きのブライトンには一笑に付されるけど、その後ジュリア・ロバーツは肩をちょっと持ち上げて白い歯をみせて笑う。

(英語だとI'll excited! って言っていた気がする。結婚式の前ってわくわくするの! ってニュアンスだった。この時ばかりは魔法もトリートメントもなく美人でいるような気がする。老いに抵抗できるのは、excitedな気持ちなのかもしれない。)

 

 うーん、でもいいですよね。

 ジュリア・ロバーツの私生活はヒンドゥー式の結婚、離婚、俳優と交際、不倫の末の結婚、出産を経験していて、それでいて写真の笑顔はめっちゃキュート。

 映画でも悪役なのに、どこか憎めない!

 

 次は彼女がアカデミー主演女優賞を獲った、「エリン・ブロコビッチ」を観てみましょうか☆

 (でもその前になんとなく一回「ブラック・スワン」を挟んでおきたい)。