SPI検査の対策、
今日は「確率・グラフ・速度・食塩」をしました。
ブログを書き終えたら割合のところをもう一度やってみよう~。
友達の就活ブログを読んだら「何者」みたいになっていて震えました。
低気圧は眠くなるし、集中力がなくなるので嫌です。
こんな時こそ、スケジュールの確認や、選考で何が必要なのか、
メモして情報を整理していこうと思います。
周りを見ても焦るだけなので、何がベストなのか、今自分にできることは何かを考えながら、進めていければいいと思います。
SPI検査の対策、
今日は「確率・グラフ・速度・食塩」をしました。
ブログを書き終えたら割合のところをもう一度やってみよう~。
友達の就活ブログを読んだら「何者」みたいになっていて震えました。
低気圧は眠くなるし、集中力がなくなるので嫌です。
こんな時こそ、スケジュールの確認や、選考で何が必要なのか、
メモして情報を整理していこうと思います。
周りを見ても焦るだけなので、何がベストなのか、今自分にできることは何かを考えながら、進めていければいいと思います。
はてなブログプロで(たしか)精神科医のしろくまさんの「何者論」を読んだ。
一行で要約すると、「何者にもなれていない」と感じる人は、理想像が高すぎて不一致間を感じているというのだ。
このことはものすごく腑に落ちて、三十分前に私が「FacebookやInstagramをみると疲れるんだよな。かといって石田ゆり子になりたいわけでもないし」と漠然と思っていたことに答えを半分だしてくれた気がする。
SNSのほかに、私が最近チェックしている番組として、「ねほりんぱほりん」がある。
地下アイドル、ホスト狂い、トップオタクとみてきた中で、共通していると感じたのは、誰もが「認められたいんだなあ」ということ。
かわいい、すてき、あなたが一番として認められたい。
番組で山里亮太さんも言っていたけど、「みんな いいね が欲しい」時代になったのだ。
いいねがほしい、とはつまり他者による評価が欲しいということだ。
それでは自分で自分のことを肯定できない原因には何が潜んでいるのだろう。
一つには、どちらでもないように見える自分をまるっと抱きしめることができない、世間の視線があると思う。その視線には中間がなく、グレーがないように見えるに違いない。いいか悪いか、正しいか正しくないか、正常か異常か。そして極端ではなくて、その中でも自分の個性を見せなくてはいけない。ベルボトムが流行してスチャダラパーを聴いていた時代とはそこが違う。マイノリティーと言えば、という代名詞がもう2010年代後半にはない。
選ぶアイコンが多くなった分だけ、自分が選び取るものが難しくなっているのである。
二つ目、「必要以上に自分にコンプレックスを感じすぎている」点。
学歴も性格も、なんとなく「いろんな人がいるよな」と思って公園に集まって缶蹴りをする古き良き時代は過ぎてしまった。ドラえもんでたとえれば、出木杉君は出木杉君と似たようなタイプとつるむし、のび太はもっと卑屈な人間になっているし、しずかちゃんが現代にいたら絶対のび太みたいなタイプとは話さない。
なんとなく似た者同士でつるむし、お互いのことを「あいつはなー」なんて目で見ているから逆にみられている自分に落ち度がないか恥じ入ってしまうのだ。
他者を通しての自分が観れていないから結果的にコンプレックスが助長して自分の恥と罪ばかりに目が行ってしまう。
・・・と具体的な事例もなしに挙げたけれど、それらはすべて、私が寮に住んでいた時に関わっていた人、関わっていた大人をみていて思うことなのである。だから他の人がどうとかよく知らない。でも大学でも人の目を気にする人はかなり多いと思う。
私は自分のことをかなり無神経なほうだと思う。
よく人をいらだたせるし、「開き直ってるんじゃねえ」ともいわれる。
つらい。
人の神経になるべくさわらないようにと考えたら、引きこもってしまうしかなくなってしまう。
だから私は、匙加減を探しながら人に会い続けるのだ。
何者になるかもわからない。平凡なOLになれたらいいと思う。
平凡になることが高い理想だったら、どうしよう。
退寮して1年も経つのに、寮に入り浸っている。
友人Hが「買っておいたワインを飲んでしまった」とかそういう理由でひょっこり新宿から私が出向くのだ。
Hは某省庁の留学支援金をアテにしていたのだが、面接で落ちてしまった。ウケる。
でも合格者はなんとなく東京の大学の人が少ないのかな、と思ったのでつまりそういう方向性なのだろう。
駅に着くと共通の友人Sと一緒に財布なしで「お金なーい」とものすごい笑顔でぴょんぴょん跳ねながら言った。
(このSも留学支援金の面接に落ちている)
そのあと三人でカラオケに行った。
「あとで返してね」と言って私が払う。
カラオケでは
Hは「青いベンチ」とか「プラネタリウム」とかヒットした恋愛の曲ばっかり歌い、私は「名残り雪」とかZAZ を歌って置いてけぼりにする。Sはワンオクとか歌ってた。
Hと私はジェンダー的にはfemale 、Sはmaleだ。
HとSはZAZを「全然わからん...」と流したあとに二人で「Despacito」を歌っていた。
参考:
カラオケも終わり、缶ビールとピーナツを買って帰る中でその計画ははじまったのだ。
【Sのナンパ作戦】
主張....学校で出会いねエ! 寮で告っても恋人できねエ! Tinderやりとりうまくねエ!
カウンターパート:テキストメッセージで話が続かないってコミュ力以前の問題ジャン
主張...おら渋谷さ行くだ〜
というわけだった。
「もうブスじゃなくてデブじゃなければいい」という雑でひどい基準になったSはナンパをすることにした。
スケッチブックに紫のパステルマーカーで15という数字を書き、
「お姉さん、僕と15分だけお茶しませんか?」と声をかけまくる。
何度かシュミレーションをする時に
最低のパターン (「なんかこの人こわい。行こう行こう」と小声で友達同士ささやきあって逃げる)
をやった。
走って追って来たSが本気でこわかった。
スーツ姿の私が趣旨を説明するシュミレーションをすると
「AVみたいだな」
という感想になる。
世のキャッチやナンパ師がどのようにナチュラルに寄り添って歩くかなどを議論した挙句、「もうスケッチブック邪魔」という話も出てきた。
決行は土曜日の夜。
その日の朝に聞いたSの言葉を私は忘れない。
「渋谷って遠い....」
これを聞いてHは「しょーもなっ」と一喝する。
私はといえば用事があるので新宿に向かわなければいけなかった。
「絶対Sを連れてきてね」とHに念を推した。
外に出る。
回想。
カラオケの後、夜
「もうここには戻らない、と決意して出るのに結局何度も来てしまう。」
「いらなくね、その決意」
「いらないよ、そんなもの」
春だ。少し暖かくて風がふんわりしている。体が軽くなる。
大学生活、なにも悔いはない。
中学で、部活ばっかり、高校で勉強ばっかりだった。
大学生活は、もっといろんな人に会いたいからという理由で寮に入った。
もっと楽しくすることもできたかもしれないけれど、馬鹿げたことを春にするのは今しかなかったのだ。
夢の中で彼女は言う
「今日は授業よ、起きて」
夢から覚めると朝で、慌ててコンビニで何か買おうとする。
サラリーマンがずらっと並んでいるだけ。
そして本当に目覚めると星が瞬いている。
4時間の眠りのあとに、私に残されたのは眠るということのふしぎさ。
待ち合わせの前に映画に行く、という習慣は便利です。世の人に広く普及してほしいです。
「あさがくる」は脳死を扱った作品で、その作品自体が動きのあるもの、というよりは
「脳死」という現象をそれに関わるいろんな人から捉えた映画でした。
脳死になる当事者の少年、恋人、家族と受け手側になる家族、友人、医者たち…。
日本の脳死に関することはどうなっているんだっけ、と頭の後ろのほうで考えながら見ていました。
心理的描写よりも一瞬一瞬の画を積み重ねてできたような映画です。
海の描写、人が車を運転している時、心臓を取り出す瞬間、街の景色…など。
「映像作品」という意味合いが強かった気がします。どちらかというとドキュメンタリーのような。心理描写のないモーパッサンという感じです。人の心の動きを映画であら合わすって結構難しいのでしょうか・・・。
そういう意味では前回みた「ELLE」のほうが私は好みです。
3月にユジク阿佐ヶ谷で「アキ・カウリスマキ」を上映するそうです。
楽しみ♪