学生生活東京行動範囲

吉祥寺:デート、ジブリ美術館、友達と井の頭公園で飲む。

下北沢:下北沢B&B、教会

渋谷:ナンパ大作戦サポーター、映画館

駒場東大前:散歩

国分寺 :飲み会、お気に入りのカフェ、教会

西国分寺:クルミドコーヒー

国立:一橋図書館、ロージナ、一橋祭

武蔵境:ICU祭、劇鑑賞、本の返却、野菜バーベキュー参加

三鷹:井の頭公園からの散歩

武蔵小金井:鍋会参加、公園で花見

立川 :映画映画「セッション」観に行く。ビリヤード。

八王子 :セレオ

高円寺 :読書できる喫茶店

阿佐ヶ谷 :友達と歩く、映画館

荻窪:歩く。

新宿 :公園、エッグベネディクト、高速バス

御茶ノ水・市ヶ谷:お堀沿いに歩く

神田- 東京:乗り換え、kitte,oazo

 I 

池袋 -200円Bar,プラネタリウムジュンク堂ハンバーガー屋さん

日暮里 -トルコ料理谷根千散歩

西日暮里 -成田乗り換え

上野:花見、科博、美術館、あんみつ、タマゴサンド、動物園

大井町:就活?

- 茗荷谷護国寺:散歩

原宿:青山フラワーマーケットワタリウム美術館、パンケーキ、クレープ

- 明治神宮前:お祭り?

参宮橋:プレゼン

千駄ヶ谷:バレーボール全国大会、鳩森神社

-恵比寿:就活

目黒:HUB東京

五反田:就活

品川-田町-浜松町- 新橋- 秋葉原:就活

錦糸町:カフェ、スカイツリーを眺める

西大島:面接

清澄白河:ブルーボトルコーヒー

月島:友達と朝からもんじゃ

府中:外大図書館

玉川上水:国立音大

乃木坂:新国立美術館、森ビル

神楽坂:あんみつ、映画館、かもめBooks,赤城神社

赤坂:ホテルオークラ

神保町:岩波ホール古書店街、なぽりたん、スフレパンケーキ

本郷三丁目:講演会、先輩に会う、五月祭

鷹の台:武蔵美

永田町:国会図書館

有楽町:映画館

銀座:松屋、サロン

飯田橋:映画館、お堀散歩

二子玉川:蔦屋家電

豊島園:紫陽花祭り

西葛西:ディズニーにいくため。

奥多摩:小旅行

溜池山王:クリスマスコンサート

築地:本願寺盆踊り

東大前:宿泊・研修

中野:ごはん、古本、ロイヤルホスト

中目黒:桜、チーズケーキ

天空橋:文学フリマ

水道橋:東京ドーム、ムーミンカフェ

早稲田:アルバイト、映画館

代々木上原:東京ジャーミイ

白金台:植物

下高井戸:映画館

経堂:飲み会

日比谷:映画館

三越前:アートアクアリウム

東銀座:事務所、ぐんまちゃんの家

大森:映画館

羽田空港

 

映画館に行きまくってることが判明しました。

 

岡真理「蟹の虚ろなまなざし、あるいはフライデイの旋回」

「あなたは岡真理を読んだ方がいいよ」と何回か言われ、そうねぇとうなずきつつも、手に取ったのは大学4年生の秋になってからだった。

 

『彼女の「正しい」名前とは何か 第三世界フェミニズムの思想』、2000年、青土社

 

「蟹の虚なまなざし、あるいはフライデイの旋回」は、

共感したということの錯覚性、不確実性について映画や小説を題材に言及したエッセイだ。初出は『現代思想ジジェク特集、(1996年12月号)、青土社

 

題材は「セブン」(アメリカ、1995年、監督:デイヴィッド・フィンチャー)、ケビン・カーター「ハゲワシと少女」1993年、J・M・クッツェー「敵あるいはフォー」1992年、スラヴォイ・ジジェク「快楽と転移」1996年の4つ。

 

「共感がすべてではない」とか「時にはそれが暴力の一端を担う」という主張で、「共感」が大好きな私にとっては「なるほど」って感じでした。

(これも共感なのかしら。)

 

後半では「他者の声なき声を伝える」ことの傲慢さについても述べられていて、ぜっさん卒論のためのフィールドノートをつけている私にとってはぐさぐさくるものがありました。

やはり改めて「傲慢だなぁ」と思うと人類学より歴史学の方がいいなぁと思いますよね。歴史学について詳しいわけじゃないですけど。少なくとも誰かの書いたテキストを巡る解釈は一つの見方でしかないことがはっきりしているわけだし、議論をすることができる。それに比べて「質的調査」とか「臨床心理」とか「文化人類学」ってかなり閉じられたようにも感じます。それを編集するという行為そのものが。

 

「空気は読めない」ってよく言われるけれど自分で「共感がすき」だと思う私は、ここで言及されている「他者との同一化」の錯覚/幻想について、意外と思うと同時に興味深かったです。

 

「共感」も結局は知覚の仕方の一つでしかないということが切り離されているから、だと思います。

「共感」は時に利用可能なものであることや、テクニックとして用いることができると意識しないからこそ、共感することは純粋に「他者と自己を同一化すること」とイコールになってしまうのではないかとさえ思うのです。

 

ということで、このエッセイを読んで思ったことは疑う・あるいは可能性をできるだけ考えるということと、自分が他者に対して同一化するのではなく、どこまでが自分の領域でどこまでが他者の領分なのかを知る必要がある、ということ

 

それから「共感」はどんな種類の、どのようなものがあるのか、ということでした。

 

 

 

 

ワイン

甲州ワインを飲みに、勝沼に行ってきました!

蕗味噌と湯葉という、一見「ワインに合うのだろうか?」とみえる合わせも、すっきりとした軽い口あたりのワインにとても合いました。

日本酒では強くなりすぎる味も、爽やかに飲むことができて美味しかったです。

 

勝沼にはまだ、葡萄棚といくつかのぶどうがあり、10月も終わるころですが秋を感じることができました。

 

こうして自然からとれたものを加工して、楽しめるものになっていくんだなと思うと、わくわくしました。

 

「くらむぼん」さんでは、500円で試飲が10-15種類以上楽しむことができます。

アイスクリームと合わせてもいいくらいの甘口のデザートワインが多かったのですが、私は白の辛口が好きなようです。

 

甲州ワインはもともと、行基が持ち帰ったというお話があり、カスピ海近くから日本の山梨まで葡萄が渡ってきたのだと思うとなかなかロマンがあります。

 

充実した日曜日でした!

草冠に楽と書いて薬。

 

楽はラクになるというリラックスしたイメージもあるし、快楽や楽観というようなポジティブな、(時に現実離れした)イメージもある。

 

三週間に一度、私は薬をもらいに医者に行く。

セカンドオピニオンを受けたほうがいいよ」、と友達に言われたりする。「製薬会社の戦略じゃない」という人もいる。

一時期薬を大量に飲ませることで、過剰摂取で救急車に運ばれる患者が増えたせいだ。

クリニックで先生の前に座ると、私はpatientになる。

忍耐をしなければならない。

 

薬を飲まなければ、すごくイライラしたり、電車に飛び込みたくなったり、立っていられないような気持ちになるからだ。

 

叫びたくなる。身体が溶けてなくなりそうになる。歌い出したくなる。

 

だから私は薬をもらいに行かなければならない。

脳の物質の作用の問題なんて、よくわからない理由で、よくわからないことをいっぱいいう人がいても、私は少しでも自分が楽になるために、飲まなければいけない。

毎日。ずっと。たぶん一生。

秋の一日。

東京の秋は好きです。

暖かくて、少しずつ冬の寒さを含むような空気が故郷とは違います。

(実家のあるところは、乾燥して腫れていることの多い場所です)。

 

飯田橋の欧明社でフランス語会話のテキストを購入し、ほくほくしていました。11月フランス語検定に備えます。最終的には1級を取得したいな〜なんて、夢のようなことを考えたりしています。

 

友達とごはんを食べながら近況を話し合ったり、赤城神社にお詣りしたりと楽しい一日でした。

 

その後はまた大学に戻り、プレゼンの打ち合わせをしました。パンダちゃんクッキーをもらったりして楽しかったなぁ。

 

ということで今日の午前にはプレゼンの結論を書き、パワーポイントにしてアップをしたのでした。

 

合間に台所の掃除をしたり、洗濯をしたりと家事もこなしたので小さな達成感があります。

 

今日はこれから、お友達の家に遊びに行って、またお話を聞いたり、話したりしてきます。

お母さんも大学院の修士課程で研究しているらしく、お会いするのが本当に楽しみです。

 

久しぶりにゆったりした日が送れてうれしいです。

(尚、このあとはテストと卒論にますます追われる模様)。

 

 

多文化共生?

「一人一人に向き合うことが大事だ、なんて優等生な言葉で済まさないで欲しい。」

 

ということと、「心のどこかで社会の隅にならいてもいいよということをしていないか」ということに対して。

 

いやむしろ、自分に復讐されることの方が多くないですか、と思う。

 

圧倒的な事実として、「寒空の下で逆さまになりながら月を眺めていた中学生のわたし」は社会構造いかんに関わらず、ただ泣いて泣いて涙ももう出なくなった目を夜の澄み渡った空に晒していたのです。

 

私はその時の孤独をきっと一生忘れない。

忘れてはいけないとさえ思う。

 

孤独は宙にさまよい続けながら、肌の冷たさに耐えるしかなかった私を、

「傷つくことを受け止めるのがこわかった」「だから別の何かを助けようとした」なんて優等生な言葉で片付けないで。