西武線にて、レオ=レオニの「スイミー」の絵を使って#まとまると強い
と書いてある広告を見た。
みんな大好きレオ=レオニ。
ねずみのフレデリックがでてきて、その水彩画によって大人も見るのに夢中になるレオ=レオニ。
スイミーは、まとまると強いだけの話ではない。
自分だけ黒い魚で、同じ種類の赤い魚たちから若干馬鹿にされていた。そこで海へ行き、ゼリーみたいなクラゲをみたり、なんのかんのと感動して、仲間たちに「広い海へ行こうよ」と言う。
仲間たちはマグロがこわいとか言ってなかなか海にでたがらない。
そこでスイミーは「そんなら僕が目になるよ。」といい、小さい魚たちは大きい魚になりました、
という話だったと記憶している。
だからまとまると強いのではない。
スイミーさんが「お前は違う」と言われてもいじけず、冒険をして、アイデアを生んで、その通りに集団を動かしたことがすごいのだ。
スイミーさんがいわゆる「個性」を発揮しながらリーダーシップをとれてることが「強い」のである。
小学2年生の私はスイミーさんに感銘を受けた。
そして赤い魚たちみたいにはなりたくないと思った。
教科書の教訓はそういうことだと思ってた。
もし22歳の私が8歳の私に話しかけるとしたら、「スイミーさんはあのままでは他の魚に食べられていたでしょうね」と一応言う。
そして続ける。
「とはいえ、この作戦はスイミーさんがいないと成り立たないですね」とも言うと思う。
このお話は「まとまると強い」のではなく「いかにスイミーさんのような人が必要か」、という話に思われ、「スイミーさんを目指せ」と言われてるような気さえし、だからこそ「まとまると強い」という広告に違和感があるのである。
国語の教科書にのってた話だけど、なぜあれが採用されて、そしてみんなどのようにあの話を読んでいたのか知りたい。
良いニュースは小さな声で語られる。