最近はじめた出版社のアルバイトを主治医とカウンセラーのストップがかかって辞めました、憂鬱が続きます。
ある講義で「メンタルヘルス」や「当事者」がキャラクターであり、着脱でき、可能性を閉じてしまっているようなものなのではないか、というお話を聞いたので思ったことをメモします。
私自身、「うつだから~」とか「こういう人間だから~」というのを聞くと、「なぜそんな閉じこもるのか、ハリネズミなのだろうか」と思うことがよくあります。
でも最近の自分が、(主に「フリーランスの翻訳になりたい」「桃農家になりたい」「大学院に行きたい」など)夢を語るときに、現実とのバランスをとるのがとても難しくて、そして双極性障害と診断されていたりすると、私がこうしたい!! と思ったことは全部「誇大妄想の症状」で片づけられてしまう、というのがよくあるパターンです。
(最近、「およめさんになりたくて婚姻届けをゲットしました!」と主治医に報告したら真顔で「サインしていないよね?」と注意されました。正常な判断ができていない、というのが理由らしい。)
一生薬を飲み続けなくてはならない、とか家族が人を轢いても平気であるということに対して普通に生活していける気があまりしません。
薬物依存の自助グループの人が「普通の人にはわからない」って言っちゃう気持ちもすごくよくわかる。
いつ再発するかわからない、薬を飲み続けなければいけない、原因はよくわかっていないけど脳とゲノムとストレス誘発要因が原因である、って言われたって納得しないもの。
納得できないのに、依然として自分の経験と症状はそこにあり続け、それでも自分が保てないのは(死にたくなるのは・気分の波が変わるのは)脳の病気のせいなんです、と言われてしまうとなんだか妙に安心したりもする。
私がこんなに苦しいのは、普通の人ができることができないって思うのは、
朝起きられないのが「異常なこと」になってしまうのは、そうか全部脳の病気のせいなのである。
友達はそんな状態を「都合がいい」と言い切ってくれるし、「病気は個性である」と言ってもくれるけれど、そういうのは罵詈雑言を浴びせられてそれでも笑顔だったのに好きなものもできたことも失ってしまって希望をすべて失ってから言ってほしい。
同情を求めていない、理解してほしいとも思っていない、
ただ「自分がこうしたい」と思ったことや「なんだかできないなぁ」ということが全部病気によるものなんだと説明できてしまうことがとても混乱させる。
そういう意味で双極性障害というのは着脱できるし、
言葉がわからなくなっても、説明がうまくできなくなっても
それは全部病気のせいなんだと言われれば、「こんなの本当の私じゃない」って思うことができるし、再構築するときなんだと思うことができる。
たとえ排他的と言われてもそうなりたくてなっているわけではない、ということ、ひねくれてしまう残念な部分と、よりよく生きようという気持ちが和解できますように。