書く

長く自分がどういうものを好きなのか全然わかっていなかったのですが、最近

「嘘か本当かわからないけどリアリティがある」ものが好きなんだなぁということに気づきました。

 

アゴタ・クリストフとか芥川龍之介とか

モーパッサンとか。

 

就職試験で「書く仕事は隠し事」と書き、(アンネ・フランクについて書いた)、「そうなんだよなぁ。我ながら上手いことを言ったなぁ」と思っていました。

 

だから文化人類学とかとても抵抗があるのです。

あれって「俺が見てきたのは本当のことなんだよ!! これは!! ものの見方が変わる劇的変化なんだよ!!!」って主張してきてちょっと鬱陶しい。

(文化人類学者さん、ごめんなさい)。

 

オーラル・ヒストリーとかもありますけど、テープに録音されてしかも書かれるなんてもっとひどいと思いませんか?

 

証言の取捨選択をするくらいなら何かのために嘘か本当かわからなくても、何か「書いて」読む人が判断をすればいい、と思うのです。

 

「外国人が見たニッポンを日本人が面白がる」とかも最近よくありますけど、

ああいうのにも抵抗があります。

いやこれは私が卒論で使ってたことなんですけど。なんでそんなに馬鹿にするのって。

 

近代文学も近代歴史学も成立した今、きっと「自分の目で見る」ことがリアリティーのあることだと思っているんですよね。「百聞は一見にしかずってほんまやわー」みたいな。

よく見てよそれインスタで加工してるでしょ、みたいな。

(私はTwitterをこよなく愛しています。見たいものしか見えていないと言う点では同じかもしれない)。

 

はぁでもそれって本当に「見えて」いることですか? って思ってしまう。

あなたの見たものと聞いたものと伝えることは全て違うのだから、究極の独り善がりなんじゃないかって思うのです。

 

小説家をアーティストって言う人がよくわからない。自己表現できるのってすてきね、頭のおかしい人じゃないとそんなことできないのよね、なんて。

 

いやまあ和泉式部はやりすぎだと私も思わないこともないけど、自己表現ができるから芸術家が素晴らしいわけではない。

 

だからたとえ素人でも好き嫌いは分かれてしまう。

 

伝えたいことがある、口にすることなんてとてもできない。だから、

「書く」という行為が成立するのではないかと時々思います。