最近、インターネットや新聞、ツイッターを読むことがとても怖くなった。
怖くなったけれど、依然としてブログは書き続ける。
「誰かに読まれている感覚」を失いたくないためだ。
ただ感情を書き散らしたり、ただ思ったことを多く書いている時もある。
私の品性がどこかに置き去りになっている、と思うこともある。
そうして少なくなった言葉たち――時として乱暴に使ってしまう言葉たち、もしかしたら失われてもう戻ってこないかもしれない言葉たち、もしかしたら損なわれてしまった魂――を、回復させるためだけに書く。
最近、情報にひどく振られてしまう。
自分がこれが正しいのだと思ったとしても、twitterを開いた途端怖くなってしまうことがある。
私の考えたことは間違っていたのかな? 私がしたことは間違いだったのかな?
私の考えたことは私を損なっていくのかな? 誰かを傷つけてしまうのかな?
目にする言葉は批難ばかり、否定ばかりで私は私の知らないところで傷ついていく気がする。自分に罰を課しているのか? というくらい、日々のメディアに疲れることがある。
罪悪感と自己憐憫と人との比較ほど意味のないことはない、と私も思うので、こういうことはしないように努める。
これもまたTwitter で糸井重里が、(無暗に人を傷つけるような風潮に)疲れる、とつぶやいた時、ものすごいバッシングがあった。
現政権に同調している、とかそういうことだ。
私は糸井重里さんのツイートを見た時に、「なんとなくわかるな」と共感した。
日々吐き出される言葉たち、傷ついていくことばたち。
私自身を損なってしまうことはある。
けれどももうこれ以上損ないたくないし、できるだけ回復したい。
回復したいと思っても、一度傷つけられたらもとに戻らないのではないかと思うことがある。
ほんとうは取り消したりできるものでもないし、変えることのできるものでもないのに、書いては消し、書いては消しを繰り返しているのも嫌になる。
ことばは間違えてはいけないものだったのではないかしら。
もちろん、もやもやしたことや疑問に思うこともきちんと発する必要はあるけれども、
それらはそもそももっと丁寧なものであるべきだ。
このべきは、必ずそうでなければいけないというわけではなくて、
本来はそうであるはずだ、という意味のべきである。
私たちは発することばかりに夢中になってしまって、それらをきちんと精査することを忘れてしまっている。