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近代化の限界?

 

記事を書いていたら消えてしまったので、もう一度書いてみます。

 

今日の国際経営論、多文化共生論、2年ゼミを通して考えたこと。

 

西洋化、近代化、

というのは、私の学科ではよく目にするキーワードですが、

このアイデアを説明すると

キリスト教的世界の見方(perspective)、より進化した人間(知性を備えたと思われる)の見方の広まり方

のようなものです。

 

たとえば私たちはお面をかぶって踊り狂うこともなくなったし、結婚という制度ができましたし、戸籍を与えられて「私は日本人です」ということができます。

でも、例えば結婚する時に恋愛結婚であったり、西洋的古典や哲学が絶対視されたり、自分のアイデンティティーーそれがあるかどうかは別としてーー形成に日本人的な要素を取り入れたりするのは、それは何かとの1対1の対比があります。

そういう二項対立の片方として取り上げられるのが、キリスト教的ものの考え方や西洋的(ゲルマン的な)考え方とその他です。

 

ではグローバル化と西洋化が一体であるかというと、本来は一体であるわけではないのに、それがあたかも同じことのように思われることに西洋化あるいは近代化の負の側面があります。

 

それが征服であり、帝国主義であり、だからこそこれを超えた多文化主義が必要で現在普及しつつあるとは思いません。

 

・・・・・・みたいなことを考えると

複雑性を愛しましょう、とか(これは私の尊敬する大学の先生がインタビューで言っていたこと)、あるいは文化人類学的な同化・共感をしながら客観的な、鳥瞰的なものの見方をするしかないこと、あるいは歴史学的に共感をしながら一つのテキストやストーリーを論理的創り出していくことが大事なのかなと思えてきます。

 

そして、私が考えることが「なぜそう考えるのか」を伝え、組み立てていくことに大学教育の一つの意味があると思います。

 

いろいろ書いてきましたが、私の根底にあるのは「あー みんなうらやましいな」ということです。

プライドの高さに裏打ちされたこの言葉は、同時に自分を客観視できていないことでもあるし、だからこそ私はキーボードをたたき続け、大学で受けている教育のアウトプットをし続けるのかもしれません。