サーミの血

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渋谷アップリンクにて友達と鑑賞しました。スウェーデンの統治下で劣等民族とされたサーミ人の少女の、アイデンティティをめぐる映画です。

 

北欧の美しい緑や湖の景色に癒されました。しかし内容は結構重厚。

というのも、「自分たちの言葉を使ってはいけない」「こういう宗教を受け入れろ」「民族衣装を着て」「珍しいわね」

「裸になりなさい」といった主人公が「サーミ人だから」見世物になったり、自分たちとは違う対象である描写が数多くあります。

 

でもこれは、ただの「ひどい話」ではなくて、ある女性の「生き方」の話です。

 

自分の名前までも捨てて、スウェーデン・都市部の学校に進学することは彼女にとってどれほどの選択だったのでしょうか。

 

これと同じようなことは、たぶん日本でも普通にあって、本当の名前を隠したり捨てたりしている人が多くいます。あるいは、日本の名前が海外では通じないために海外名を持っている人も見かけるけど。

 

私はだれか?

といったアイデンティティに関わる問題はそれが揺らげば揺らぐほど大きな問いを持つと聞きます。つまり、多民族社会や帰国子女、その人たちに接する人は自分とは違う言語・文化を持つ他者によって自分の存在を脅かされるというのです。

 

このことに優劣をつけてきたのは、「文明人」であり「知識人」です。

 

映画ではスウェーデン人教師が主人公に「あなたたちの脳は文明に適応していないと研究結果が証明している」と言いますが、「私たちはあなた方よりも広い見方ができる/知識を持っている」と考えることで、自分たちとは異質な存在を「異質である」と対象化することができます。

 

主人公エレ・マリャは「広い見方ができる」、異質なものを異質であると対象化できる「文明人」に憧れたのであり、それが実現できない世界を狭い世界であると断定します。

 

より良い世界を求めたいと思う、権利の自由がある世界があるべき世界だと思う、このことは持って然るべきだし、その信念に突き動かされて歴史は動いてきました。

 

しかし一方で、「不平等で、抑圧されていたもの」がなかったことになるわけではない、と私は考えます。

 

それらはずっとそこにあり続ける人々の想いであり、生活なのです。

 

映画の最後のシーンで、自分の故郷に戻り、妹に「私を許して」と語りかけるエレ・マリャが何を思って目を瞑り、風を受けていたのかはまだわかりません。

 

それらは少女時代の後悔なのか、それとも彼女が年齢を重ねてわかったものなのか...。

 

その映画の最後のシーンがあまりにも印象的でした。

 

機内で観られる映画ではあるけれど、お金を払ってスクリーンで観る価値のある映画だと思います。