「わたしは最悪」~フェミニストならどう評価する?~

映画「わたしは最悪」をヒューマントラスト有楽町で観ました。

私は観る前に、女の子がもっと自分に自信を持てるような、恋愛において成長が見られるような映画なのかな、と期待していたのですが、男性視点からみた女性というような映画で、あまり好感は持てませんでした。

 

理由はまず、性描写が過激な点。

「こんなこと役者にやらせる?」というような描写が散見されました。また、アクセルとユリヤの別れる場面でも、話し合いではなく性行為をすることで関係を保とうとする点が気に入りませんでした。

 

次にユリヤという人物に現実味がない点が気になりました。

アクセルという性差別的な表現をするコミック作家と別れた後、ユリヤは彼がフェミニストと議論するテレビ番組を見ます。ユリヤは議論そっちのけで恍惚とした表情を浮かべてアクセルを見つめているのですが、私は「ユリヤはアクセルの女性観というものは気にならないのかな」と疑問に思いました。

ユリヤがアクセルと別れたのは、「自分の人生を生きていないから」「他に好きな人ができたから」だったと思うのですが、アクセルのような性差別的な内容をコミックとして描き、さらに「子どもが欲しい」と思っている人物であれば、ユリヤはもはやアクセルに興味を持てなくなっているんじゃないかと思うのですが、そこまでアクセルに惹かれる理由はなんなのかが気になりました。やっぱり彼女は男性がつくったフィクションの人物である、という気がします。ユリヤはもっと理性的に行動していいと思いました。

 

3点目にアクセルが病気をし、死を迎えるという物語の筋が観客を感傷的な思いに誘導させようとしている感じがして嫌でした。

病気をして、死ぬことを待つ彼の言葉は教師か牧師のようで、ユリヤが彼と別れた理由をぼかしていると思いました。これが「(500)日のサマー」とか「ブルーバレンタイン」みたいに「男性側にも問題があった」と描かれる方が、別れという結論に納得がいくのですが、アクセルがユリヤに言う「君は行き詰ると別れる」というセリフがあるように、「原因は全てユリヤにあった」というような別れの描き方をしている点が気になりました。どんなカップルにも別れという決断にはそれ相応の理由があるはず、と私は考えているので、アクセルという人物に嫌なところがないように描いてる点が不自然だと感じました。またもし、ユリヤが感覚的で感情的な人間なのだとして、アクセルのことについて、もっと葛藤してもいいと思いましたが、そういう描写もないのがやはり納得がいきませんでした。

 

観終えてから、この作品が高い評価を得ていたことがわかり、フェミニスト批評があるとするなら、どんな評価になるのかが気になりました。

 

私はこの映画で描かれる男性は極めて家父長的だと感じましたし、女性というものを軽視していると思います。